闘病記



1.それは突然


 「おい、すごい音がする。何の音だ。」 「何の音もしないよ。」 頭のなかで、短波放送のピー・ガーというあの音が一気に鳴り出したのである。かと思うと体の力が抜けてきて、車から出ようとしたのがシートに腰から落ちてしまった。
 最初は心臓発作かと思い、バッグから何とかニトロを取り出し口にするが、いつもと様子の違いに気がつき、
 「脳をやられたかもしれない。」
と、妻に言うと、妻も私の異常に慌てだし、
 「すぐ救急車を呼ぶからしっかりして。暑いから車のエンジンをかけれたらかけて。」
何とかキーを回すことができる。妻はサービスステーションに走る。

 1996年8月16日、娘の嫁ぎ先の宮津へ妻と二人車で出かけた。
 宮津の花火大会を娘の家から見たり、翌日には旦那の両親に会ったり、天の橋立を見学したり、娘夫婦と食事をしたりして、18朝9時過ぎに宿屋を出て帰路に向かった。
 ちょうど12時の心臓の薬を飲まなくてはいけないし、ちょうど休憩するのにもいいと思って、中国自動車道加西サービスエリアに入って車のエンジンを止めた途端の出来事である。

 妻が救急車の手配に行っている間に、吐き気をもよおす。

 気が遠くなりつつも、妻の励ます声や、エリヤの職員の声が聞こえる。
「救急車すぐ来るからね。大丈夫だよ。がんばって。」


 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。もう少しだ。
 音が止まったと思うと、すぐに男の声で、
「もう大丈夫ですよ。聞こえますか。」などと問いかけてこられる。しゃべろうとしたが、すぐには喋れない。
 すぐに担架に移され救急車に乗せられるとすぐ酸素マスクを。頭の中では『俺の車どうなるのだろう。』なんて思ったり。

                                                          

2.死ぬる!


 4,5分で加西市立病院に到着。
 たまたま当直の医師が脳神経関係だったため助かりました。医師から聞かれたことに応えるが、スローにしか喋れない。医者が妻に、「いつもこんなしゃべり方ですか。」と聞かれ、「いえ、普通にしゃべってました。」「これは脳梗塞ですね。」ビックリ。


 妻が私がペースメーカー装着者であることを伝えている。「するとMRIは撮れませんね。CTだと今すぐには何処が詰まったかは判りません。」とは言われたもののまずCTを撮ってから病室へ。私はそのころから意識がなくなり、気がついたときは病室へ。本来ならばICUに入れるところなのですが、満室のためとりあえず一般病室へ。同室の人のしゃべる声で気がついたようです。

 知らない間に服を脱がされ病衣を着ていました。看護婦さんがそばで何か言っておられるがわからない。時々鼻に何かを突っ込んでいる。あとからわかったことだが、痰が詰まったらいけないのでその処置をされていたそうです。

 次に目が覚めたときは、手が勝手に動いて停めることができない状態でした。わからない。とにかく動くのです。それもゴソゴソではなくて、バッタンバッタンとです。ベッドの柵にも手をぶっつけて。そのうち足もそうなりだしたようです。看護婦さんが骨を折ったりしてはいけないので、紐でくくりつけられたそうです。それは私には記憶がありません。気がついたときにはもう手足が動かそうにも動かなくなっていました。それと声が出なくなっていました。

 とりあえず、脳圧を下げるための点滴をされました。そのうちに点滴の数が増え、ホースが3,4本になっていました。
 私は血管が浮きにくくて血管注射をするのに看護婦さん泣かせなのですが、今回もやはりそう。腕、足と打つ場所を変えてそのたびに私は痛い思い、とうとう股付け根の大静脈への点滴に。これで点滴の針を抜き差ししなくてもよくなったし、高カロリーの点滴も打てるようになりました。


 痰の出る量が多く、度々看護婦さんが鼻からチューブを差し込んで取ってくださるが、ねばくて思うように取れない。タバコを吸っていたからだとのこと。気管に水を拭きかけて粘りをとってバキュームで吸い取る。これが結構しんどいのです。


 そのうち、呼吸をするのがしにくくなってきだした。鼻からチュ−ブを気管に通して呼吸しやすくしようと試みられチューブがうまく気管に入っているかどうかを見るために、私の口を開けてみようとされるのですが、どういうわけか私が拒否をする。無理矢理口をこじ開ける道具を持ってきての処置。何度か医者の手を噛んでしまいました。おかげで歯並びが悪くなってしまいました。
 何とかうまくいき、鼻の先に呼吸しやすくするための器具をつけられました。少し楽になったかなと思うのもつかの間、どんどんと苦しくなる。その間にもCTの撮影。『息が出来ない。死ぬ。誰か助けてくれ!』と大声を出したいのにもちろん声が出ません。
 ついに医者が、「このままでは危ない。気管切開をして呼吸器を取り付けます。」と。それを聞いた私は、『もうダメなのか」と思って、涙が出てきました。
 耳鼻咽喉科の女医さんによって気管切開、そして呼吸器の取り付け。TVで見たことのあるような器械が取り付けられるのかと思ったら、何か小さなもので、切開した気管に差し込むものでした。それをつけた途端に呼吸が楽になりました。思っていたようなものではなくてホッとしました。


 呼吸困難が回避されたと思ったら、今度は新しい不安が。
意識がはっきりしているときはいいのですが、眠くなったり、意識が薄らいでくると、体をぎりぎりと縛られるような感覚に襲われてくるのです。そして徐々に体が固く固まってきだしたのです。
 どうやって医者に訴えたのかわかりませんが、医者は「いつ納まるのかわからない。」とのこと。この感覚が納まったときには、私は完全に自分で動かせるところといったら、首から上だけになってしまいました。


 三日目になると医者がソワソワしてこられ出したそうです。妻が、私の命は大丈夫でしょうかと、尋ねたところ、色好い返事をされなかったとのこと。看護婦が気を利かして、家族を呼ばれた方がよいですよ、と助言してくださって4日目に母、息子・それに娘夫婦まで駆けつけました。私はそれとは知らず、なぜ皆が来たのだろうと思っただけでした。おかげで家族が来たときには何とか危機を脱していたので、一応安心して帰りましたけど。
 医者が妻に、「危機は脱したが、これから後遺症がどのように出てくるかわからない。一生寝たままになるかも知れない。」と言われたそうです。

                                                        

3.意思の伝達


 妻に伝えたいことがあっても喋れないので伝えることが出来ない。目で合図をするだけ。それを妻が察知するのです。
 最初にベッドに息を感じて看護婦呼び出しスイッチが接続される器具を取り付けようとしましたが、結局うまくいかず撤収。
 仕事の事で急いで勤め先に連絡をしなければいけないし、どうしようかと思っていたところ、看護婦さんが50音を書いたボードを持ってきてくださり、そのボードを使ってしゃべることが出来るようになりました。
 たとえば、「水が飲みたい。」と訴えたときには、
@ 妻に目で言いたいことがある』と訴えます。いわゆる訴える目つきです。
A 妻がボ−ドとメモ帳・筆記用具を用意します。
B まずボードの50音をあかさたな・・・と列を指していきます。私は首と目を左右に動かし列から行を選び  ます。マ行のところで瞬きを二度します。
C 今度はマ行を立てに一文字ずつ指していき、ミを指したときまた瞬きを二度するのです。
 こうして一文字一文字字を追って文章にしていくのですから、大変です。長い文章になると途中で妻も読みとれなくなって音を上げたり、私は私で伝えとから必死になるし、それはそれは大変でした。すごく根気のいる作業です。
 丁度その年、県の小学校体育研究会をわが市が引き受けて、その現地実行委員長を私が引き受けて準備を進めていたので、そのことが気になって仕方なかったのです。幹事への連絡もこのようにして妻に取ってもらいましたし、自分の学校のことが気になるし、教頭との連絡もこの方法で取りました。


                                                        
4.快復へ


 自律神経失調のため今度は、汗をかき出しました。これが並の汗ではありません。まるで濡れたままの寝間着を身につけてような汗のかきかたです。寝間着を着替えても着替えても汗は出るばかり。一日以上続いたのではないでしょうか。喉に詰まらせてはいけないので、水は飲めません。口の中を拭う綿棒で唇を拭うだけです。

 
 症状が落ち着いてきだし、頭や体も洗ってもらえるようになりました。恥ずかしいですが、動けないのでおしめです。便秘がちになり、下剤や浣腸で無理矢理出したり、おしっこはカテーテルをしています。
 看護婦さんがとても気のつく優しい人ばかりで本当に助かりました。妻も助かったと思います。
 頬が固まって動かなくなってはいけないと、使用済みのビニールの小さな点滴容器に水を入れて凍らせたもので、頬をペンペンとたたいて刺激を与える処置を続けました。痛い・冷たい・熱いなどの感覚は失ってなかったので、それをやられると最初は冷たさに耐え、次に痛さに耐えました。でもそのおかげで口が開くようになったのですから。


 口が開くようになってから、凍らせた綿棒を口の中に入れて口の中をしめらせることも出来るようになりました。それが進むと、直接氷の固まりを口に入れてもらえるようになりましたが、気をつけないと水が気管のほうへ入るので恐る恐るです。
 相変わらず、痰が出ます。チューブを呼吸器の中に差し入れて取るのですが、妻も看護婦さんに教えてもらって出来るようになりました。


3週間ほどたった頃から、何とか口からものを入れられないものかと試みを始めました。氷菓子のみぞれを口に入れたり、フルーツゼリーを口に入れてみたり、ちょっと過ぎるとやはり気管のほうへ入っています。気管へ異物がはいると急性肺炎や急性肺炎を起こして熱が出ると、この練習もストップ。
 順調にいきだしたから、流動食を始めたもののやはり、熱が出て注し、結局加西にいた40日間は点滴だけでした。


 回復し出すと、妻も少し楽になり身の回りの者の買い物や、郵便局などへ行きたくなり(病院への支払いも出てきたし)、私を置いてきぼりにするようになりました。
 初めての時はとても不安で帰ってくるまで気が気ではありませんでした。どうやって看護婦さんを呼べばいいのか、妻のように目を見て感じてくれるというわけにはいかないだろうし。病院は高台の上にあるので、歩いて降りなければならないので結構時間が掛かるのです。始めはすぐ戻ってきていたのが、私が慣れてくると、せっかく降りたんだからいろいろと買い出しなどもして帰るから余計に時間が掛かる。看護婦さんからは「寂しいでしょう。」といって冷やかされるし。娘が来たときなどは二人で買い物を楽しんで帰るのですから、遅くなります。私の気持ちも知らないで。

 
 家業が忙しくて母親ではどうにもならないときは、丁度まだ次男が夏休みで家にいたので、妻と交代。加西は交通の便が悪く、車の免許のない妻は一旦姫路までバスで出てそれから新幹線に乗り、福山まで、そこで福塩線に乗り換えて府中まで、乗り継ぎがうまくいっても3時間掛かっていました。
 次男と変わってもいてくれるというだけで、妻のように意志の疎通は図れません。それでもやはり息子、いてくれるだけでありがたかったです。妻は一晩旅館の仕事をするととんぼ返りで病院に帰ってくれます。大変だったと思います。

 3週間過ぎた頃から担当医に地元のほうに転医したいと妻が言ったところ、「症状が一段落したからいいでしょう。」ということで、転医する病院探しを家と連絡を取って決め、そのため妻はその病院までCTネガを持って受け入れてもらうようお願いに福山まで行ったり、転送するためのベッドタクシーの予約に姫路まで行ったりし、日程も付き添いの医師の予定と併せて決定しました。



                                                   


5.リハビリ開始

 4週間頃からリハビリが開始されました。
 初めて療法士の先生が来られたときは、『この人たち何をしに来たのだろう。』なんて思ってしまいました。何せ3人の先生が入れ替わり立ち替わり来られたのですから。あとから判ったことですが、運動療法士・作業療法士・言語療法士の先生とちゃんと療法別に来られたのです。
 運動療法士の先生に病後初めてベッドに座らせてもらったときは、目が回りました。首が重たく俯す格好になり顔を上げるのがとても楽ではない。もちろん手足は動かないのでダラリの状態。一分くらいだったかな。先生に横抱きされるような格好で座らせてもらいました。
 自分ながらここまで快復したのかと思うとうれしくてうれしくて。
 作業療法士の先生は、手がどの程度動くかを確かめられました。肩が固まって少しでも動かすと痛くて痛くてうめき声が出ます。手指の動きも確かめられました。この時はまだ指が自分で動かすことはできませんでした。
 言語療法士の先生が、「あ〜でもお〜でもいいから声が出るかな。」と言われてもウンともスンとも言えない。療法の仕方を考えておられるようでした。50オンのボードを見て、「これでは確認しづらいでしょう。」と言われ、次の日に透明プラスチックボードに50音を書いたものを持ってきてくださいました。それだと透き通っているので字を見ながら私の目も見ながら確認できるようになり、ずいぶん楽になりました。


 ひどいもので3日もするとベッドに座ってもめまいがしなくなり、病室を出てリハビリ室でリハビリを受けることになりました。
 点滴を抜いて車椅子への移動です。さすが慣れておられてグラグラの私を難なく車椅子に座らしてくださいました。イスに座っても前に倒れそうになるため片手で私を押さえながらリハビリ室へ。とても広いリハビリ室です。多くの患者と療法士の先生も多くおられました。
 ベッドに移ったと思うとそのベッドにくくりつけられ、何をされるのかと思うとそのベッドが90度立ち上がるのです。そして10分くらいそのまま、これがしんどい。最初は5分くらいだったかも知れません。
 作業療法室では、マリオネットよろしく両手をバネの突いた柱に留められてそれで腕を伸ばしたり曲げたり、痛みがあまりないように工夫しての療法。テーブルに置いてあるお手玉が取れない、腕を伸ばそうとすると肩に痛みが走る。それを乗り越えなくては行けないのだけど、なかなかできない。「肩を暖めた方がいいわね。」ということでホットパックで両肩を暖めて肩を少しもみほぐしてからお手玉取りを。
 言語療法は、とにかく腹から息が出きることの訓練、まだ口の締まりが悪く涎はたらたら、先生も大変です。おなかから息をすることは合唱をしてたし、腹筋を鍛えてたからできると思ったのですが、私の場合体のバランスを取る機能が犯されているため、おなかに力が入らなくなってしまったのです。だからおなかに力を入れることができません。先生が一生懸命して下さるのに申し訳ない。とうとう最後まで先生に私の声を聞かせることができませんでした。


 数日してくると不思議なもので、何とか自分で体を維持できるようになりました。そこで、「外の空気を吸わせてあげよう。」と病院の庭に連れ出してくださいました。その時の空気の味は今でも思い出します。
 加西でのリハビリはほんの導入口だったと思いますが、次の病院でのリハビリにスムーズにはいることができたことはありがたかったです。

                                                        


6.転院

 いよいよ9月27日転送の日が来ました。
 妻が病院から聞いた患者移送用車両を持つ姫路のタクシー会社から手配したストレッチャー付きワンボックスカーに乗ります。
 病院のベッドからストレッチャーに乗り移って車に乗り込みます。病棟の看護婦さんに見送られ、高速道を利用して一路福山へ。担当医師が付き添ってくださいました。
 ストレッチャーですから、クッションは最低、その上、落ちないように括りつけられているので、痛くて窮屈で、2時間ほどがとてもしんどかったです。
 やっと福山市の太田病院に到着。今度は病院のストレッチャーに移されて、ちょうど、医師団がケース会議をしているというので、その場に引っ張り出され、持ってきたCTを見ながらなにやら話を。それが終わったらすぐに病室へと思ったら大間違い、ベッドが今空いていないというので、またストレッチャーに載せられたまま1時間以上を待たされ、やっとUCIのベッドに移されました。


                                                        


7.太田での入院生活


  くたびれてぐったりですが、ここはICUだから付き添いは無しです。食事の時の一時間だけ家族に会えます。でも初日は、家族は安心したのか帰って私一人きり。ものが言えない、今まで一人でほって置かれたことのない私は不安一杯。ナースコールを持たされてもそのボタンがなかなか押されない、何度も試して、その都度看護婦さんが来て、喉の痰をとってくれましたが、本当に怖い面もちでした。
 食事も初めての流動食がその日の夕食から早速出ました。怖くてなかなか喉を通りません。でも看護婦さんはそんなこと気にするでもなく次から次へ飲ませます。よく喉につかえなかったものです。あとから判ったのですが、トロミを入れてドロッとしてあり飲みやすくしてあったのです。
 夜の長かったこと、長かったこと、ほとんど寝られませんでした。
 次の日にはリハビリの先生が来て、私をベッドに座らせ、「よし、これならすぐにリハビリ始められる。」と言われ、本当に入院三日目からリハビリが始まりました。
 昼と夕食の時には、息子(長男を東京から帰していた)が面倒を見てくれました。朝はやはり看護婦さんのお世話です。
 五日目くらいに一般病室へ移されました。それも運良くか訳あってか一人部屋に入れられました。そこには2ヶ月半ほどいました。


 朝10時半頃に家族が世話をしにやって来ます。それが待ち遠しくて、待ち遠しくて。朝食は看護婦さんに食べさせてもらっているため、どうしても後回しになり、8時過ぎから食べ始めて、終わるのが9時頃。それから吸引。その前後に点滴。そこに家族がやってくるという具合です。
 加西で股に埋め込んでいた点滴用のスロットがあるうちは点滴も楽だったのですが、どういうわけか、それが取れてしまい、それからは手にされるようになってしまい、元々血管が浮きにくいたちなので、針がうまく入らなかったり、液が漏れたり痛い目に遭いました。
 

 リハビリは主任の女先生、とても優しく、そしてとても厳しくリハビリ指導をしてくださいました。午後4時くらいから30分ほどです。 まず、体をもんだり、痛くない程度に手足を伸ばしたり、縮めたりしておいてリハビリ本番。90度垂直に立ち上がるベッドに縛られて、立ったときの感覚を取り戻す訓練も始まりました。そして腕を伸ばす訓練、これが一番辛かったかな。痛くても容赦ありません、先生が少し手伝うふりをして伸ばされる。痛いとばっかりは言えないので、我慢。
 そんなことの繰り返しでしたが、車椅子に座っても腕は肘から上には上がらなかったのが、ほんの少しずつだけど上がっていくようになるのですからすごい。車いすを自分では動かせなかったのが、ほんのちょっとずつだけど動かせるようになり、一月半もすると、リハビリ室から病室までの約30メートルばかりを10分ほど掛けてですが一人で帰れるようになりました。先生に言わすと、「あなたのやる気がそうさせたのよ。」とのこと。よく、リハビリは大変だといわれますが、本当に大変です。支えたのは、何とか動くようになりたいという一心から痛いのも辛いのも我慢できたのだと思います。


 二週間ほど経ってくると太田病院での生活もリズムがつき、落ちついた病院生活を送れるようになりました。点滴も流動食から固形食に変わってからはなくなりました。
 ところが困ったことが一つあります。それは、すごい便秘に悩まされたということです。
 体の中心部分に力が入りにくいのに加え、動かない体で、便が堅くなって出てくれないのです。仕方なく看護婦さんに肛門に手を突っ込んでもらって、便をほじってもらうのです。これが堅いのだからとても痛い、終いには痔になってしまいました。
 しかし、下剤を飲み、リハビリが本格化してくると便も軟らかくなってきてやがて治まりました。未だに下剤は飲み続けています。
 

そのうち息子も東京に帰り、病院へは母と妻が交代で来るようになったのですが、私としては妻のほうが意思の伝達が良く出来るので、母が来た時は何となく素っ気なかったように思います。それでも母が帰る時は、間際になってわざと世話をさせたりしてバスの便を一便遅らせたりさせたものです。
 

 ひと月ほど経った頃リハビリの先生が、「ワープロを打っていたのだから、しっかりこれを打って意思の伝達に使いなさい。」と言って器械を一つ貸してくださいました。それは、ワープロのキーボードで、ひらがなを打つと音声に変換してくれる器械です。
 まだ手が少ししか伸びない状態でしたが、それこそ痛いのをこらえてキーを打ちました。【あ】を打った次に【い】を打つのが大変。なにせ手が伸びないのですから、必死でいたいのをこらえてやっと打つという具合。これが良かったのか、腕の伸びも早くなったようだし、意思の伝達も楽になりました。
 

 車椅子にしっかりと座れるようになって、発病以来初めて散髪をしてもらいました。それから二ヶ月近く経って風呂にも入れてもらえるようになりました。喉の切開している部分にビニールをかぶせ、お湯が入らないようにテープで貼ってからです。お風呂と言っても自分は動かないのですから、ベットに寝転がって、それがお湯の中につかるというものです。そして看護婦さんが体を擦ってくれるのです。何か自分がどんどん回復に向かっていくようで凄くうれしかったです。


 日曜日も午前中家族の来る前に、看護婦さんに車椅子に乗せてもらい、一人リハビリ室で、腕を伸ばしたり、上げたりする訓練をしました。輪投げなどが格好の良い道具のなります。そうしていると家族が来る。午後は家族がいるので、一人ではできない車椅子から立ち上がる訓練をしたりしました。
 喉に付けていた呼吸器もはずされました。傷口を縫うのかと思ったら、自然に口がふさぐとのこと。本当に一週間もするときれいにふさがり、人間の再生能力もたいしたものだと感心したものです。

                                                        

8.回復期へ


 11月に入ってから病室が、3階から4階の個室に変わりました。今までいたところでよかったのですが、どうもそこはいつまでも居れる部屋ではなくて、重病患者の特別室のようでした。ですから回復したので部屋を変わったのでしょう。
 今度の部屋は個室だからTVもあるし、便所も付いているし、電動ベッドなのでとても過ごしやすくなりました。
 食事の時も頭を起こして食べさせてもらえるのでうんと楽になりました。
TVを見ながら食事もできるし。でも自分でリモコンを持って操作できるようになったのはずいぶん先のことでしたがね。看護婦さんに出してもらったり、家族に出してもらったりしました。


 リハビリも順調です。スプーンを持って豆を掬ったり、新聞紙を片手で丸めてみたり、台の上にあるお手玉を集めたり逆に台から落としたり。
 それに支えてもらいながら、立って足を出す練習も始まり、それに慣れると足を一歩ずつ出す練習もやり始めました。
 手が肩の高さまで上がるようになるにはずいぶんと掛かりました。もちろん腕から上がるのではなくて手のひらが上がるようになったのです。
 雲梯の前にいって、まず握りやすいところを握り、それから徐々に高くしていくのですが、それがなかなかうまくいかない。第一肩が痛いのです。それを我慢して手を伸ばすのです。はじめは腰の高さあたりだったのが、徐々に上がりだし、退院する頃には手のひらは耳のあたりまで上がるようになりました。
 そこまで行くと、療法士さんの両肩に手を当てて、腰を支えてもらいながら歩く練習も始められるようになりました。でも最初は腰がふらつくし、肩をしっかり持っておられないので、ぐらぐら。二・三歩歩くのがやっとでした。しかし訓練という物はすごいですよ。一日一日の変化は見られないようなものの、一週間前と比べると格段の違い、進歩しているのです。
 やがて、歩く距離も2m・3mと伸びていき、退院する頃には7・8mは歩けるようになりました。
 退院も近くなり腰を支えたもらわなくても歩けるようになると、療法士の先生の指導で、4点支持歩行器なるものを買い、それを使っての歩行練習も始まりました。


 入浴も特浴に入れてもらっていたのが、支えてもらえば少し歩けるようになったので、家庭と同じような風呂に妻に入れてもらうことになりました。初めての時は療法士の先生の指導を受けながらの入浴でしたが、次からは週二日妻に入れてもらうようになりました。


 言語療法の方ですが、これは遅々として進みませんでした。呼吸の仕方から始めるのです。何せ時々息の仕方を忘れたかのように呼吸できなくなるのです。起きているときは何ともないのですが、夜寝るときよくなりました。『今は吸うのか?吐くのか?』と考えないと息ができなくなるときがあるのです。それに深呼吸が思うときにできない。
 だから発声練習も思うようにいかない。息を大きく強く吐く練習に小さな子が吹いて遊ぶおもちゃを使ったり、ハーモニカを使ったりしました。
 病気の影響で喉咽の上が片方だけ下がっているため、息が鼻に抜けてしまうのです。それでも何とかちょっとだけ言葉になるようになりました。
言語療法士の先生もいろいろ試行錯誤されたようでしたが、思うほどの成果が上がらなかったように思います。


 お正月が近くなり、病院で過ごさなければならないかなと思っていたら、先生から一時帰宅するようにと言われました。
 とは言っても私が家で生活していた場所は2階ですから当然無理。ちょうど1階の客間に洋室があったので、とりあえずそこで正月は過ごすことに。
 12月31日タクシーで何と3ヵ月半ぶりに我が家に帰りました。玄関を入ったところで思わず「ああ生きて家に帰れた」と思った瞬間泣いてしまいました。家が旅館をしているおかげで廊下は広めなので車いすの通行には差し支えありません。食堂も板張りですから問題なし。
 わずか二泊三日でしたが、家族そろってすばらしい時を過ごせました。
 もう退院も近いだろうから退院後私の生活する場をどこにするか考えました。その結果プレハブですが子供部屋を生活の場にすることにしました。退院するまでに車いすが入れるように入り口や段差をなくすための改修、それにトイレを私でも使えるようにすることにしました。それと私がお風呂に入れるよう浴槽のところにも手すりをつけてもらうこととしました。


 リハビリも順調に進み、先生の両肩を持っての歩行がずいぶん楽になってきました。でも一人で歩くことにはなりそうにありません。
 障害者認定検査も受けました。そしていよいよ退院面接。主治医の前でどれくらい機能回復しているかを診てもらいました。その時先生が、
 「こんなに回復するとは思いませんでした。せいぜい車椅子に座れる程度まで回復すればよい方だと思っていました。よくリハビリがんばったね。」と言われ、涙。

 
 1月23日退院。後は週一度リハビリに通うこととなりました。ところがこれが大変でした。公共の乗り物が使いにくいので交通機関はタクシーです。妻は運転できませんでしたから。わずか30分ほどのリハビリのために週1回で一万円ほどかかっていました。妻も大変です。朝旅館のことをしてから出て行かなければならないのでものすごい負担になったことだと思います。

                                                     

9.肺炎になった

 退院してひと月もたたない頃、どうも右の胸が痛いのです。別に打った憶えもないし、そのうち腕を上げると突っ張るように痛くなってきたので、医者に行ったところ、肺に水がたまっているではありませんか。誤燕から起きた肺炎だと言うことで急遽入院。
 ところが、治療を受けているのにいっこうに水がなくならないばかりか増える傾向にあり、先生も心配になって共済病院へ転移することになりました。多分検査のために肺の水を抜かれたのですが、それがいけなかったのではないか、血が水に混じるようになったものと思われます。血液をさらさらにするため、ワファリンという薬を飲んでいるのですが、これが血が出たら泊まりにくくする作用があるため、その所為だったのでしょう。
 熱があまりでなかったので助かりました。看護師さんに聞いたら、やはり私の場合は付き添いが必要だとのこと。ちょうどこのとき次男が帰ってきていたので、妻と交代でしてくれました。もちろん泊まり込みです。
 回復期にはいると、リハビリもしてもらえるようになりました。
 この病院には私の教え子が看護師で働いています。外科病棟でしたので、リハビリ室に行く途中ナースセンターに寄り、会うこともできました。
 結局地元の病院と共済病院とで1ヶ月入院したことになります。跡が残ったり、突っ張った感じが残ったりするかもしれませんと言われましたが、おかげでそういうことも残らずに済みました。


 そのうち近所の人が近くにあるリハビリを専門にしている病院施設を紹介してくださったので、妻が行ったのですが、私が若いためにそこには入院できないとのこと。その代わりに東広島市にある県立リハビリセンター病院を紹介してくださりました。
 4月下旬に妻に連れられて県立リハビリ病院の診察を受けに行きました。
 「リハビリは発病半年までが一番有効なのです。もっと早く来れば良かったのに。」と言われましたが、入院許可がおりました。すぐには空きベッドがないので空き次第連絡すると言うことで待っていると5月4日に入院するようにとの連絡。もっと待たされると思っていたのでびっくり。とりあえず必要なものを持って入院しました。


                                                        


10.県立リハビリセンター病院での生活


 この病院はリハビリをするために入院したのですから、ふつうの病院と違い寝間着ではなく平服を着て一日を過ごします。もちろん自立できるように、その訓練も平行して行われます。ですから会いに来るのは許されますけど、前の病院のように付き添いはできません。


 朝看護婦さんに手伝ってもらいながら寝間着から平服に着替え、夜はまた手伝ってもらいながら寝間着に着替えるのです。でもいつまでも看護婦さんは手伝ってはくれません。
 「自分で着れない服は着ないようにして、着れる服を用意しなさい。」とも言われました。
 食事は部屋食ではなくて、食堂で一斉にします。私はやっと一人で食べられるようになったばかりですから、食べ終わるのはいつも一番最後。魚の骨抜きなどは看護婦さんにお願いです。だいたい40分ほどかかります。


 入院したのが連休中だったので、リハビリが始まったのは連休明けからでした。
 ここでは運動療法士の先生が、運動機能回復のリハビリを、作業療法士の先生が手の機能回復のリハビリを専門にしてくださいます。
 運動機能回復訓練では、まず関節部分をほぐして歩くことを主体にリハビリします。太田病院で基礎的な訓練を受けていましたので、スムーズに訓練を受けることができました。県立ですから土曜日は休みです。休みの日もリハビリ室は午前中解放されていますので自分で平行棒を使っての歩行訓練をしました。
 作業療法は、手先の運動機能回復を目指し、ワープロを打ったり、ビーズ玉と使って絵を描いたり、リボンを編んだり、それと肩の関節をほぐすためにホットパックで肩を暖め、その後もみほぐしてもらうことをしました。


 なにせ今回の病気の入院中は、昼間は必ず家族の誰かがいたのですが、今度はずっと自分一人です。さみしくて何かあれば家に電話し、妻の声を聞いては安心していました。妻もそんな私が心配だったのでしょう。最初の頃は週に二日来てくれていました。落ち着いてからはだいたい日曜日に会いに来てくれました。
 いつも私が一人ポツンと食堂に残って壁に向かって黙々と食べているときにやってきます。一週間の出来事を報告してくれ、そのあと院内の散歩に連れて行ってくれたり、リハビリしている私の様子を眺めたり、洗濯物の始末をしてくれました。そうして夕食が終わったら帰ることにしていました。ちょうど新幹線の便がよかったらしいです。妻が帰ったあとはやはりさみしかったです。一度母も連れてやってきました。妻から聞いていたのでしょうが、母は私の回復ぶりを実際に目にして驚いているようでした。


 私がここへ入院中の間に妻は自動車学校へ通い、免許を取ることにしました。 旅館が忙しくて、車の免許の勉強をしていると寝るのが2時3時になったときでも、会いに来てくれました。我が家からここへ来るには、JRを乗り継いで3時間ほどかかります。車だと1時間半ほどで済むのですが。お金もかかるし、妻の苦労は大変だったことと思います。本当に尽くしてくれました。それだけに私も「頑張らなくっちゃ」と、療法士の先生もほめて下さるくらいリハビリに励みました。


 入院中看護師さんと言い合いになりました。それはシャワー浴のことでです。一般浴は不可能なので、看護師さんに入れてもらうのです。
 週二日シャワー浴をしてもらうのですが、看護師さんの都合で入れようとし、リハビリの時間と重なってもシャワー浴を優先するのです。私の場合、午前中が運動療法のリハビリ、午後が作業療法のリハビリになっており、時間も決められているのですから、その時間を避けてくれるといいのですが、自分たちの都合を優先しようとしたものですから、「私は入浴するために入院しているのではない。リハビリをするために入院しているのだ。」と訴えました。療法士の先生の言葉添えもあったので、それからはリハビリの時間を避けるようにしてくれました。


 入院して2週間ほどたった頃から言語訓練も始まりました。こちらは週一回です。広大医学部の先生だそうです。そう、ここの先生は広大医学部出身者です。中には医学部の先生も兼ねておられる方が多いようです。
 訓練は、発声の仕方から始めました。これができない。そこでそのための訓練の一つとして、一日三回食後に自分で訓練することになりました。何をするかというと、まず鼻をつまんでホッペタをふくらませた状態のまま息を止めるのです。我慢できるまで息を止めます。これを5回します。次に鼻をつままないでやはりホッペタをふくらませた状態で息を止めます。こちらも同じように5回します。だいたい20分ほどかかります。
 この訓練を始めてからぼつぼつ発声できるようになってきました。発声ができるようになると、やはり頑張ろうという気がまします。一人屋上の踊り場へ出て発声練習をしました。妻が来たときには、それを聞いてもらうのが楽しみにもなりました。


 リハビリを頑張りすぎたのか、それとも筋力が落ちているためなのか、前から痛めていた腰が痛くなり、腰にホットパックをしたり(作業訓練の時に、両肩にもホットパックをしているので、そのとき一緒にします)、腰の牽引もするようになりました。
 腰の牽引は外来処置室にあり、いつも私一人だけです。看護師さんは私が牽引を始めると部屋からいなくなります。10分したら戻ってきてくれるのですが、時々再々10分たっても20分たっても戻ってこないことがあり、「ごめんなさい、忘れていたわ。」と、こちらの不安をよそにケロッとしていました。ひどいときは1時間近くの時もありました。部屋が看護師さん達の居るところとは離れているので、私の今の声では届くわけないし、器具を自分ではずすこともできないし、もちろん台から降りるなんてできるわけないので、「このまま忘れられたらどうしよう。」と、本気で不安がったものです。
 それともう一つ、やはり両肩の関節の動きが悪く、痛い。医者に訴えると、「それじゃあ、肩に注射を週一回打ちましょう。」と言うことになり、退院まで続けられました。この注射は現在通院している外科病院でも当分続けられました。潤滑油のようなものらしいです。でも打ちすぎると逆に関節がもろくなるそうで、頃合いを見て中止になりました。


 太田病院に居るときも来て下さいましたけど、一度地元の主治医が見舞いと様子伺いに来て下さいました。遠くまでありがたいことです。帰りは妻を乗せて帰って下さいました。


 初めの頃は作業療法のリハビリ室や言語療法指導室が外来病棟にあるので、看護師さんが連れて行ってくれていてましたが、やがて自分で車イスを漕いでいけるようになりました。腕に力がないのでほんのちょっとの坂でも上れません。後ろ向きなら上れるのがわかり、力が付くまではそうしてました。
 やがて自分でも車イスが何とかちゃんと漕げるようになると、院内散歩をするようにしました。外来者用の食堂へ自動販売機があるので、そこまでコーヒー缶を買いに行くのが日課になりました。これがまた結構な運動になりました。
 この病院は、身体障害児のための院内学校もあり、併設して養護施設に寮もあります。もちろんリハビリセンターですからそちらの施設も充実しており、入院病棟ともつながっているので、見学を兼ねて何度か訪れました。
 リハビリ用のプールでリハビリを励む人、車イスバスケットを楽しむ人、車イス周回コースもありそこでトレーニングしている人、こうしてみると障害を持っている人は案外多いことに気づきます。それとその障害を乗り越えようとしている人も多いということです。


 病棟では、月極めでいろいろな行事が催されました。ビデオ鑑賞会、これは私が耳が悪くなってから大きな音を聞くと頭が痛くなるので、一度も見に行きませんでした。
 あと七夕祭りもありました。職員の寸劇もありました。入院患者のカラオケもありました。私は悪い方の耳をふさいでいましたけど。
 ちょうど入院患者の中に横浜マリノスのキ−パーが肘の手術で入院しており、職員に人気がありましたよ。その人も歌を歌わせれていました。


 8月に入って施設とボランティアと近所の人が一緒になっての盆祭りがありました。入院病棟からちょっと離れたい手自分一人でいけるかなと思ったのですが、何度も休憩しながら頑張って会場に行きました。
 会場は施設内のグラウンドですが、入り口に舗装されていない坂があり降りるのは何とかなるものの上がることはできないなと思ったのですが、誰か助けてくれるだろうと思い切って降りました。
 踊ることはできませんし、もっぱら出店で食べ物を買うことにしました。本当はビールも売っていたので買って飲みたかったのですが、そこはガマン。入院病棟の職員が売っている出店で、焼きイカを買い、ビールを飲んでいる人を恨めしそうに横目で見ながら食べました。職員が私一人で来たことを知ると、「すごい!がんばったんじゃねえ。」と、びっくりされていました。そのあとコーラを買って飲みました。
 やはり帰りの難問は坂でした。私の力ではとうていだめ。でもすぐに「上がられるのですか?」と、横から声を掛けられ、うなずくとごく自然に車イスを押して上げてくれました。自然な対応の心がありがたかったです。


 8月を迎えて、医者から外泊をするようにと言われだしました。これは自宅での生活に備えてだということはわかりました。
 しかしなにぶんにも私が動くとなると妻は車の運転ができないのでタクシーの利用となります。もちろん往復となりますから、結構な出費となります。医者は週一のようにいわれるのですが、2回しかできませんでした。そのうち一度は妻の妹の主人に無理をお願いしました。やはり家はいいものですね。


 妻の車の免許取得がちょっと遅れたので、私の退院もそれに合わせてお盆に入った8月13日となりました。
 この日は妻にも早めに来てもらい、それぞれの療法士の先生にもお礼を言ってもらいました。それもあってリハビリを受けての退院をしたのです。
 同室の人も見送りをして下さいました。看護師さんにもお礼と別れを述べました。このときは意地悪な看護師さん(厳しい人だっただけのことですが)の顔を見ても泣いてしまいました。どうもこの病気になってから感情のコントロールができなくなってしまったようです。

その後も色々と病気やら転倒骨折などを繰り返していますが、脳梗塞の再発はすることなく現在過ごしております。



 発病以来約一年の病院生活とも一応お別れです。一年といえば長いです。本当に家族・特に妻はよくしてくれたと思っています。それで私もリハビリを一生懸命できたのだと思っています。多大な出費と精神的肉体的な苦労は、計り知れないものがあっただろうと思っています。本当に感謝の一語に尽きます。面と向かっては言えないので、ここで言わせてもらいます。ありがとう。