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新年早々いろいろと
みなさん 明けましておめでとうございます。どうか今年もよろしくご愛顧お願いいたします。
今年は、新年早々いろいろなことがありました。今年初めての【つれづれ】なのに、まとめて書かせていただきます。
元旦
大晦日に寝るのがとても遅くなったので、ゆっくりの起床で10時前。
顔を洗ったら早速仏様・神様・年越し様にお参り、今年一年の家族無病息災をお祈りしました。
家族みんなが揃った所で、新年の挨拶。それからお屠蘇をいただき、おせち・雑煮と続く。私はお正月は日本酒を一本つけてもらうことにしており、今年も同じように。そして雑煮のお餅は二個いただきました。
食事が終わってから、いただいた年賀状の区分けです。旅館関係・家族関係・個人関係と分けるのが我が家のやり方。私が分けているのを家族は見つめているのです。分け終わったらそれぞれに渡したり、廻したり、最後は私がパソコンで整理するので、私の元に返ってきます。
何枚かこちらが出していない人から来ていたので、早速返礼を作り、家族のもまとめて出してもらう。
昼寝は正月も関係なくバッチリしました。雑煮を食っている間は私は昼食抜きです。
息子が借りていたDVD-VIDEOを見て夜は過ごす。
妻が久しぶりにお風呂に入れてくれる。ところが入浴直前に次男が仕事の帰りだと言って寄ったので、妻は私そっちのけで次男におせちなどを持たしたりしたようだ。次男が帰ってからやっと風呂に入れてもらえました。やはり何も気兼ねをしなくても良いので本当にゆったりした気持ちで入れました。
元旦はこんなものかな。
元旦の家族とおせちの写真は、掲示板と日記の方に載せています。
1月 5日
デイケアの新年会と訃報
デイケア今年最初の利用日、そして新年会がある。
送迎車が迎えに来て、まず八幡神社へ詣でました。歩ける人は神前まで行って詣っていましたが、私のように歩けない者は、巫女さんが車まで来てくれて拝んでくれました。
施設に到着してしばらくしてから新年会が始まりました。去年は女子スタッフのほとんどが和服姿だったのですが、今年は三日ある新年会に交代で和服を着たそうで、今日は二人だけ。ちょっと残念。それと今年はスタッフだけの出し物でした。
私の友人でもあるスタッフがまず詩吟を歌って会が始まりました。なかなかいい声でうなってましたよ。
二番手は獅子の登場です。何せスタッフによるにわか作りですから、うまく舞うことなどできません。でもこれもお愛敬。利用者一人一人を噛んで回りましたよ。
次は踊り、和服姿の二人の女子と一人の男子スタッフによるものです。これは去年と同じ踊りでした。
最後は残りのスタッフによる出し物(名前を忘れました)でした。
お昼はお寿司定食。お寿司はおかわりOK!寿司職人がその場で握ってくれています。私は好きなのでずいぶんおかわりしました。やっぱり貝柱が美味しかったかな。
昨夜は今日のことがあって眠れなかったのか、4時頃になったので入浴前の昼寝はぐっすり眠ってしまった。そのせいでお風呂に入っている時も体がなかなかシャンとしないで困ったほどです。
入浴が一番最後なので、風呂から出るともうおやつの時間。施設の名の入った饅頭をいただいたらもうお帰りです。
今年の新年会は、ちょっと期待はずれだったかな。
巫女さんが来るままでお払いに来てくれました。
今日の和服ガールの一人、主任です。
鍛えた喉を披露してくれました。
酒も飲んでいないのによろめいていた獅子
去年もこの踊りだったな。
今日はなかなかよく合っていましたよ。
デイケアから帰って我がベッドに横になったところに電話がかかってきた。何となく胸騒ぎがしたのだが、案の定それは従兄の死を知らせる電話だった。無情なものですね、私がいい気分で湯船に浸かっている時に従兄は息を引き取っていたのです。
伯母の主人が戦死したため、私の父が親代わりとなっていましたし、私には男の兄弟もいなかったこともあり、兄弟のようにしていましたから、尚更です。
あと数ヶ月の命と聞いて暮れにお見舞いに行って二人の写真を撮ったのですが、それが従兄の最後の写真となりました。
本当はすぐにでもなき姿に会いたいのですが、こんな身思うようにはいきません。それに私が行っても、周りに迷惑をかけるばかりなので、お通夜も行くのを諦め、葬儀も息子に行ってもらうことにしました。享年63歳、若すぎる死です。
お義兄ちゃん、安らかに眠ってください。
1月 8日
祖母の一三回忌の法要
今日は祖母一三回忌の法要の日。旅館ですから集まる部屋はあるので、我が家でしました。
祖母は何せ95歳でなくなったのだから、今まで呼んでいた人がつぎ次と故人になるのです。伯母の死・従兄の死を始めとし、父方の方も亡くなったり病気で参加できなくなったり、参加者も世代交代したりして、減ってしまいました。これも世の常ですかね。
参加してもらえないかもと思っていた従兄の姉が夫婦で参加してくれたのは、本当にうれしかった。
今まで参加できなかった次男もこの度は参加してくれて良かった。
私がこういう状態なので妻が私の代わりもしないといけないし、大奮闘でした。でもこの度は二人の息子たちも結構動いてくれたので大いに助かったようです。まあ伊達に年を取ってはいないようで、少し安心しました。
来年は父の17回忌があります。
1月 9日
「とんど」まつり
朝食の時妻が、「今日はとんどがあるんだって、お父さん行こうよ。」と言うことで、我が町の「とんど」まつりに門松やしめ飾りを持って出かけました。
どっからどうなったのか定かではないのですが、我が町では10年ほど前から「とんど」まつりがはやりだし、近年では各町が競ってすばらし・アイデアに富んだ「とんど」を作るようになり、それをまた新聞の地方版がコンテストまでし出し、加熱してきているようです。ちなみに我が町の「とんど」も今年も何か賞をもらったそうです。
今朝は今年最高の冷えだったので、日中も寒かったのですが、着込んで妻に車椅子を引いてもらって町のはずれの河川敷まで行きました。
まつり時間ぎりぎりだったので、お偉いさんの挨拶もほとんど聞くことなく、「とんど」点火式に。
キャンプファイアーの点火式よろしく、酉年生まれの人たちによるトーチで、ワイヤーと滑車を使った導線に点火が行われました。炎の導線は一度橋の欄干まで導かれ、そこから一気に「とんど」に向かって走り「とんど」に点火されました。
アイデア結集から製作まで延べ何時間費やされたものか分かりませんが、火がつくと後はあっけないものです。瞬くうちに燃え尽きてしまいました。我が町には材木屋もあり、建設屋もあり、鉄鋼屋もあり、恵まれてもいます。
ほぼ「とんど」が焼け落ちたところで、女性会による豚汁・ぜんざいが参加者に振る舞われました。ぜんざいに入れてある餅は、当日の午前中に町の人たちで突いたものです。寒かったのでよけいにみんな美味しそうに食べていました。
幼なじみである同級生が私の姿を見つけて話しに来てくれました。そして私のためにぜんざいを持ってきてくれました。ちょうどネギの入っている豚汁は食べられないので良かった。そう言えば今年は私たちも酉年なんだ。
美味しいぜんざいも一口しか食べられなかった。なぜなら小豆の皮が喉にかかったためです。残念だけど、妻が二杯食べました。
温かいものも口にできなかったので、いいかげん寒くなり、早めに切り上げさせてもらいました。
昔学校でやっていた「とんど」を思い出しました。
人生何度目かの失敗
あ〜あ、やってしまった。人生何度目かの失敗を。
日記にも書いていましたが、今年に入ってDVD-VIDEOを借りるようになりました。でも一度に見られないので、何とかCOPYしておけないものかと思っていたら、COPYSOFTなるものが販売されているのでそれに食いついたのはいいのだけれど、なかなか思うように出来ない。そのうちどこをどうつついたのか分からないのだけれど、他のMediaSoftまで正常に動かなくなった。
仕方なくOSをヴァージョンアップしてみたものの、今度はIMEが正常に機能しなくなった。どうあがいてもダメなので初期化することにした。
鉄則通りデータディスクのBackupをしていたら、今度はwriteSoftの不備が出てきた。「まあ、データディスクを間違って初期化することはない。」と途中で止めてHDDの初期化をした。フォーマットの画面でよくよく確認したつもりなのだが・・
フォーマットに時間が掛かるのでその間にトイレに行き、用を足しながら、「そう言えばフォーマットしているHDDの容量が大きかったな?」と思い返したとたん、「しまった。間違えてデータディスクをフォーマットしてしまった!」便器に跨ったまま一瞬顔が真っ青になったのではないか。あれほど注意していたのに。間違ったキーの一押しで、何年も培ったデータがパァ〜になってしまったのだ。バックアップを取らなければとの鉄則を怠ったばっかりに、もうどうしようもない。
と言うわけで二台のHDDは綺麗に掃除できたが、あとが大変。それからはソフトもインストールしたと思えば、またまた失敗をして、結局4回もOSを入れ換えてしまった。ソフトもバージョンアップしたり、時間とお金のかかる作業でした。
やっと18日頃からなんとかうまく作動するようになって一安心しているところです。何せ素人がやるのですから。息子に聞けば楽だったのでしょうが、「またオヤジ変なことしたのだろう。」と言われるのが嫌で、ほんの少ししか聞かなかった。あとは何とかOSを入れてインターネットと繋がっているときに検索を掛けて調べたり。妻にも怒られたりしながら、ひたすら復旧にがんばったのです。
バックアップしたCDやDVDがライティングソフトの扱い方が悪かったのか、読み取れたり読み取れなかったり、またどうやっても読み取れないのもあって、これにも相当時間を費やしてしまった。バックアップを取ったら、きちんと読み取れるかどうか確かめておかなくてはならないと言うことも身をもって教えられました。
データを無くしたのですから、HPのデータもサーバからダウンロードして、データの保存し直しをしました。
メールはバックアップしていたのが使えてやれやれ。ところが自動仕分けもバックアップしたのを使ったら、メールが消えてしまった。そこでNetscapeのメールソフトを入れて、OutLookにエクスポートすることによって、メールを失わずに済みました。
一番残念なのは、住所録や旅館の顧客管理一覧が去年の正月以降がダメになったことです。これにはずいぶん時間が掛かっていたのですから。
まあ、いい教訓としなければならないのでしょうが、それにしてもデータを無くしたことが惜しい、悔しいです。
妻、還暦の誕生日
3月15日は、妻還暦の誕生日です。25歳でもらったのに、もうあれから35年から経ってしまっています。月日が流れるのは本当に早いものです。
その妻の誕生日に事もあろうか早朝から喧嘩。
事の発端はバースディカード。昨夜妻が寝てから用意していた手作りのバースディカードを妻の着替えの上に置いておいた。
なのに、妻は朝服を着るとき、置いてある物が何かも確かめもせず、また私を起こしに来た時も何のカードだったかも確かめようともしないではありませんか。旦那の行為を何とも思わないことに、わたしは腹を立ててしまったのです。
だから朝食の間も口を利かず。妻は妻で私が怒っている理由が分からないようでした。何と鈍感なやつ。
朝食が終わった頃宅配便が来ました。私が妻へのプレゼントにと、フラワーアレンジメントをIT通販に頼んでいたのが届いたのです。妻が嬉しそうに持ってきたのを、私は感情を押し殺して、「部屋に行って見てこい。」と怒って言いました。妻は何だろうと思って部屋に行き、カードを見つけてきました。「お父さんこれで怒っとんてん?」と呑気に言うので、「おまえは人の気持ちが分からんのんか?」とますます腹が立ってきたのです。
結局妻にはリハビリに行くのに車で送ってもらわず、タクシーを呼んで行きました。
もちろんそんなのでリハビリ、いい具合に出来るはずありません。「今日はダメね。」と先生に言われる始末。
帰りは妻が迎えに来ました。まっすぐ家に帰るんだと思っていたら、そのまま大型ショッピングセンターへ行くではないですか。「お昼を食べて帰ろう。」妻としては珍しいこと言うのです。『ハハアン、ごめんなさいのつもりか。』と思ったらつい顔がほころんでしまった。食堂で二人で昼食。好きなものも付けてもらって、私はもう機嫌が直ってしまったのです。私も何と単純な人間でしょうか。
ちょうどいい機会だと思い、「電気店に連れて行って。」と頼み、DVD-Rディスクを買ってもらいました。
まあ、これもいい思い出の一つになるでしょう。
私から妻に贈ったプレゼントです。
自分で買いに行けないのが残念。
これはヘルパーさんからいただいた
妻へのプレゼントです。
3月21日 孫たちがやってきた
待ちに待っていた孫たちがやっと来ました。
予定では最初18日に来ると言っていたのですが、婿さんの仕事の関係で一日来るのが延びたのです。
19日。
私は予定通りにリハビリ。昨日からジンマシンが出て痒かったので、ついでに診てもらいました。ジンマシンの方は風邪薬の薬疹かもしれないとのこと。他の薬とも合う飲み薬をもらいました。
丁度終わったところに妻が迎えに来てくれて、その足で墓へ。墓には息子が掃除をするために来ていたのです。今回は私は車から拝んで済ませてもらいました。
墓参りが終わって帰宅したところにジャストタイミングで孫たちの到着。本当に計ったようでした。
上の孫は顔を覚えていたのだろう。ちょっとはにかんだが、すぐに慣れたようです。
次男の方はキョトンとして、私を見ていましたが、やがてニヤッと笑ってくれました。
娘夫婦が一息ついている間に、私は昼食を摂っていつも通りお昼寝。私が昼寝をしている間に妻と娘は孫を連れてプレゼントを買いに行ったようです。
夕食は妻の母も来て晩餐会。明日20日は二番目の孫の一歳の誕生日。ちょうどいい具合に我が家で誕生日を迎えることとなったのです。それと長男がこの春から幼稚園へ。明日は旅館がちょっと忙しいので、今日お祝いを兼ねての晩餐会。
とは言ってもごちそうを喜んでいるのは大人共ですけどね。
一歳の誕生日ですから、ケーキのローソクも一本。フーは出来ませんでしたから、ままが代わって。鯛の塩焼きもしました。本人は一口で、後は大人の口に入りました。
写真も一杯撮りました。子どもがいると大人の顔が自然と柔らかくなるものですね。いろんな事言う人がいるけど、子どもは大人の癒しになりますね。子どもを嫌う人の気が知れません。とは言いながら毎日ではないから余計なのかもしれませんけれどね。
今夜は特別、ビールもいつもより多く飲ましてもらいました。婿さんも本当に久しぶりに我が家で酔いました。
孫たちのVIDEOも見せてもらいました。孫が寝た後も遅くまで大人は盛り上がりました。
晩餐会が終わったら、私は早速バースディカードの作成に取りかかりました。もちろん一歳の子が分かるはずはないのですが、記念にと思って作りました。タブレットを使って「おたんじょうびおめでとう」と 手書きをし、撮ったばかりの写真でカードを作りました。結構私の満足のいくものが出来ましたよ。でも終わって時間を見たら、何ともう1時過ぎていて、あわてて寝ました。
20日。
今日は動物園へ行く予定の日。でも空はくもり肌寒いし。その上今日は旅館が忙しくって妻が付いて行けない。息子に頼むのも気の毒。ましてや娘夫婦に面倒を見てもらうのは、二人の幼い子連れもっとかわいそう。と言うことで娘家族だけで福山市立動物園に行きました。やっぱり少し寒かったようで、早めに帰ってきました。一歳の孫はどうか分かりませんが、三歳の孫はそれなりに楽しんだようです。
夜は忙しくて、夕食の時間も遅くなり、もちろん晩餐会もなし。でも男はちょっとだけ盛り上がりました。でも昨夜とは違って早めの切り上げ、とは言っても食べ始めが遅かったので、少々遅くはなりましたが。妻はもっと遅くなりました。
今夜は写真を撮りませんでした。撮ればいい場面もあったのですが。
21日。
もう孫たちの帰る日です。あっという間に二泊三日が過ぎてしまいました。
一歳の誕生日に一升の餅を背負わせる習慣がこちらにはあります。そのことを思ってはいたのですが、内孫ではないし、半ば諦めていました。
ところが18日私の入浴サービスの時、ヘルパーさんが「餅を背負わせてやらないと行けないでしょう。」と言われたことから、そうだなと言うことで業者に頼もうとしましたが、急なことと量が少ないことでいい返事がもらえず。そしたらヘルパーさんのところに餅つき器があるし餅米もあるから突いてあげようと言ってくださり、甘えることになり、昨日わざわざ届けてくださっていました。
それを孫の帰る前に負わせました。前もってリュックを持ってくるよう娘に言っていましたので、そのリュックに餅を入れて負わせました。孫はまだ独り立ちが出来ませんのでままが身体を支えながらリュックを背負わせたところ、ご本人は何をされるんだろうと思っていたのでしょうがなされるがまま、リュックを背負っても泣きもせず、ママに支えられてしっかりと立っていました。パパと祖父ちゃんはビデオに写真にと必死でした。
でもリュックをおろしてもらうとさすがに何だかホッとしたような表情をしていました。
そこまで、今日は連休の終わりだし道路が込んではいけないので、早々にさようならです。私以外のものは玄関の外で車を見送りましたが、私は玄関でお別れ、ちょっと寂しかったなあ。
あんなに来るのを楽しみにしていたのに、もう帰ってしまった。今度はいつ来てくれるのかな。娘も産休が明けるし、早くても夏まで待たねばならないだろうな。その時には、もう二番目の孫も歩くようになっているだろうし、私は一人歩けない人として置いてきぼりになるだろうな。嬉しい悲しい話になりそう。
自分の誕生日祝いとは知らないで。
立派な鯛の塩焼きもばあちゃんの手で
見事に出来ました。
ばあちゃんに抱かれたのですが、
もうちょっと眠くて・・
やっとおじいちゃんも孫と一緒に
写真を撮ってもらいました。
「よー、背中が何だか重いよう。」
じゃあ、今度会うまで、おおおばあちゃんも
元気でいてね。じいちゃんもね。
3月30日
DVDドライブの故障
今回、私のPC環境不調となる元凶は、どうもDVDドライブにあったようです。
書き込みをしたCD−R/RWやDVD−Rなどの読み込みが不安定になり、読めたり、読めなかったり、素人の私はOSの動作不調だとばかり思っていました。
どうにもならないで、ひょこっと息子のPCでは私のPCで作成したCD−R/RWやDVD−Rを読んでもらうと、これが読めるのです。息子曰く、「書き込みが出来て読み込みが出来ないなんて。ドライブの故障だろう。」
確かに。まさかドライブが壊れているなんて思ってもいませんでしたから、ライティングソフトの設定が悪いのだろう・私のPCには相性が悪いのだろうなどと思い、バージョンアップしてみたり、違うソフトをダウンロードしてみたり。息子の助言で新しくドライブを購入しました。もちろん財務相の許可を得てからの話です。
IT通販で安く販売しているところを探して注文。再々買い換えるものではないので、現在最新のものを購入しました。それでも前回購入した機種の2/3で買えるのですから、デフレだからというのか安くなったというのか、買う方の私としては助かりましたけれども。
25日の午後届いて、早速夜息子にセッティングしてもらいました。
ライティングソフトをインストールし直して使ってみると、スムーズに書き込み・再生が出来るではありませんか。前のドライブではどうしても読み込めなかったディスクも、あっさり読み込めてしまいました。
今年の正月以来費やしてきた時間が何だったのだろうかと、馬鹿みたいです。何枚のディスクを書き込み不良をして処分したことでしょう。
おかげで今は快適にDVDドライブを使っています。
花粉症
何とも思いも寄らないことが起きました。私が花粉症になったようなのです。
先日17日に風邪を引いたと思って注射までしてもらったのが、どうやら花粉症の始まりだったようです。
その時は一日だけでクシャミも鼻水も止まったので、やっぱり風邪だとばかり思っていたのですが。
ちょうど一週間後にまた鼻水とクシャミ。それからは毎日のようにその症状が。まさか、この私が花粉症になるとは思ってもいませんでした。本当に花粉症ってやっかいなものですね。
でも、昨日も花粉の飛散が非常に多いと言うことだったのに、何ともありませんでした。でも今日は昼寝起きから変。今もクシャミに鼻水の中、PCに向かっています。
年度末
年度末、いろいろなことがあります。
25日に県の教職員の人事異動が発表になりました。辞めてもやはり気になります。
ちょうど私より一年先輩が定年に当たります。知った方が何人も辞められています。まともにいたら、私も来年は定年、いい年になっているのですね。
私がまだ元気なときには、我が市は教育においては文部科学相のいいなりにはならない、批判的な教育態勢を取っていました。ですから国からも県からも睨まれていたのですが、3年前の市長選で市長が替わってから方向が一転、その影響をもろに被り、市内に勤めていた教員はバラバラにされました。もちろん管理職も同じです。
今は私と同期に管理職をしていた人もほとんど市内には勤務しておらず、周辺地勤務になっています。車社会だからガマンできるのでしょうが。一般教員も、私の知っている人は本当にわずかになっています。
小学校は、いくら情報社会だとはいいながら、地域に根ざしていることがだいじです。そしてその地域で暮らしている先生(市では同じ町とはいきませんが、せめて同じ市内)が必要だと私は思うのですが。私の考え古いですかね。
我が市では近々中学校区に小学校を統合し、小中一貫交代制を作るとのことです。教育の原点を見直すという観点から考えられたものなら、私もどうのこうのとは思いませんが、ただ行政経済改革の中から発案され、県・国のご機嫌伺いのような形から生まれたようにしか、私には思えませんので反対の立場でいます。
小学校教育は、特に地域に根ざしていなければなりません。地域の小学校を無くすことは、もっともっと最後の方法のように思うのですが。小学校がなくなれば、必ず地域は衰退します。そのことの未来像は出来ているのでしょうか。そうなくても我が市から離れていくという状況なのに。
言いにくいことですが、今の小中の管理職が他の市町から来ている人が多いから切実に思っていないのではないかなと思います。我が市の教育の行く末が気になります。
29日のリハビリに行ったら、脳梗塞を発病し退院してから地元の病院でリハビリをお世話になっていた先生が、この3月末日で辞められるとのことでした。
突然のことなので、私もどう対処していいか分からず、リハビリ室を出たとたん声を出して泣いてしまいました。この日はたまたま妻も診察を受ける事があって、その後はずっと一緒にいてくれたのですが、私が泣いたのにはびっくりするやらおかしいやらだったそうです。先生も、「ああ、最後に泣かしてしまった。」と言われてました。
この病院も機構改革をされるようで、病院から診療所になるそうです。それを契機に先生辞められたのかもしれません。病院の開設間なしから勤めておられたのですが。今後の先生のご健康お祈りします。
デイケアも新規採用の人たちが今研修をしています。みなさん若くて、しゃきしゃきしていて、観てていい気分になりますね。もちろん若い子に世話をしてもらうと、自分も若くなったように思います。(これ、私だけかな。)
いつまでも初心を忘れてくれなければいいのですが。一人では何かできない人ばかりと接する仕事なのですから、決して自分を優位に立たせようとなんて思わないで、相手を一大人として尊重するように接してほしいものです。
今年初めての散歩
念願の散歩に出かけました。もちろん散歩といっても自分で歩くのではありません。シニアカーに乗ってです。昨年10月から借り始めて冬のあいだは返し、今月からまた借りました。日記にも書いていましたが、今日まで乗る機会がなかったのです。
行き先は、もう昨日から決めていました。「府中市子どもの国 POM」( http://www.ccjnet.ne.jp/~pom/ )です。シニアカーに乗れば家から10分もかからないところにあります。私がリハビリに通っている病院の向かい側にあります。
竹下総理の時の「ふるさと創世」による一億円で、子どもの声の中から生まれた施設です。このPOMは川土手に隣接しており、その土手に桜が植えてあるのです。その桜の蕾のふくらみ具合を見に行ったわけです。
今日は日曜日。付属のラジコンカー・サーキット場も家族連れの愛好者が、にぎやかに楽しんでいました。
また公園では小さな子たちが親に見守られながら、あるいは親と一緒に楽しそうに遊んでいました。
ところで肝心の桜はというと、川べりということもあるのか残念ながらまだ色づいていない蕾が半分ぐらいでしたが、明日か明後日には開き始めるのではないかと思われる蕾もありました。本当に今年は遅いです。
歩行者専用道ですから人の来るのを注意していればいいだけなので、のんびりとデジカメで風景も撮りながらシニアカーを運転しました。
一息ついたところでトイレに行きたくなり、POMの施設へ入りました。中のプレイルームも親子連れが一杯でした。私の孫も去年の夏に来たときには、利用し喜んだところです。娘も「こんな施設はなかなかないわよ。うらやましい。」と言っていました。(詳しくはPOMのホームページを見てください)
もちろんこんな施設ですから障害者用トイレもあります。現役の時子どもたちを連れてきたときに見て知っていました。でもその時は、『あるのだな』ぐらいにしか見てはいなかったのです。
実際に使おうとすると車椅子の人が自分一人で使おうとすると難しいことが分かりました。それはトイレにはいるためには入り口のドアを手前に引かなければならないことです。しかもドアが鉄製の枠で作られており、非常に重いのです。
しかたなく、職員に助けてもらいました。出るときは車で押しさえすればいいので、助けてもらわなくてもよかったのですが。
よくよくお礼を言って施設を出ました。途中の見晴らしのいいところで車を止め、来るときに自動販売機で買っていた缶コーヒーを飲みながら、公園で遊んでいる子どもたちのようすを眺めました。
ちょっと雲行きが怪しくなってきたので、帰路につきました。それでも帰り道、よその玄関の花をデジカメに撮りながら帰りましたけどね。
帰宅したら無事帰った私を見て、妻も安心したようでした。これからはどんどん温かくなるし、大いに散歩しようと思っています。 念願の散歩に出かけました。もちろん散歩といっても自分で歩くのではありません。シニアカーに乗ってです。昨年10月から借り始めて冬のあいだは返し、今月からまた借りました。日記にも書いていましたが、今日まで乗る機会がなかったのです。
行き先は、もう昨日から決めていました。「府中市子どもの国 POM」( http://www.ccjnet.ne.jp/~pom/ )です。シニアカーに乗れば家から10分もかからないところにあります。私がリハビリに通っている病院の向かい側にあります。
竹下総理の時の「ふるさと創世」による一億円で、子どもの声の中から生まれた施設です。このPOMは川土手に隣接しており、その土手に桜が植えてあるのです。その桜の蕾のふくらみ具合を見に行ったわけです。
今日は日曜日。付属のラジコンカー・サーキット場も家族連れの愛好者が、にぎやかに楽しんでいました。
また公園では小さな子たちが親に見守られながら、あるいは親と一緒に楽しそうに遊んでいました。
ところで肝心の桜はというと、川べりということもあるのか残念ながらまだ色づいていない蕾が半分ぐらいでしたが、明日か明後日には開き始めるのではないかと思われる蕾もありました。本当に今年は遅いです。
歩行者専用道ですから人の来るのを注意していればいいだけなので、のんびりとデジカメで風景も撮りながらシニアカーを運転しました。
一息ついたところでトイレに行きたくなり、POMの施設へ入りました。中のプレイルームも親子連れが一杯でした。私の孫も去年の夏に来たときには、利用し喜んだところです。娘も「こんな施設はなかなかないわよ。うらやましい。」と言っていました。(詳しくはPOMのホームページを見てください)
もちろんこんな施設ですから障害者用トイレもあります。現役の時子どもたちを連れてきたときに見て知っていました。でもその時は、『あるのだな』ぐらいにしか見てはいなかったのです。
実際に使おうとすると車椅子の人が自分一人で使おうとすると難しいことが分かりました。それはトイレにはいるためには入り口のドアを手前に引かなければならないことです。しかもドアが鉄製の枠で作られており、非常に重いのです。
しかたなく、職員に助けてもらいました。出るときは車で押しさえすればいいので、助けてもらわなくてもよかったのですが。
よくよくお礼を言って施設を出ました。途中の見晴らしのいいところで車を止め、来るときに自動販売機で買っていた缶コーヒーを飲みながら、公園で遊んでいる子どもたちのようすを眺めました。
ちょっと雲行きが怪しくなってきたので、帰路につきました。それでも帰り道、よその玄関の花をデジカメに撮りながら帰りましたけどね。
帰宅したら無事帰った私を見て、妻も安心したようでした。これからはどんどん温かくなるし、大いに散歩しようと思っています。
![]() 近隣では屈指の広さを誇る ラジコンカー・サーキット場です。 |
![]() 天気もまあまあ良かったので、親子連れの 多くの子どもたちでにぎわっていました。 |
![]() これがPOMの施設です。 プラネタリウムもあります。 |
![]() 近隣市町村から社会見学で 多くの学校が訪れます。 |
![]() HPの表紙やこの写真のように まもなく開花するだろう蕾が半分くらい。 |
![]() 川の畔に植えてある柳の葉の緑が 鮮やかになっています。 |
4月17日
正真正銘!健全な野外デート
此処のところとても天気の良い日が続いています。昨日もシニアカーに乗って散歩しましたが、今日も散歩に行きました。
私だけいい気分になるのも・・とも思いましたし、それに何だか今日は胸の具合もちょっとおかしいので、妻に、「ハルの散歩も兼ねて川原の方へ行ってみないか。」と誘いました。妻もすることは山ほどあるのですが、気分転換しようと思ったのでしょう、一緒に行くことになりました。
ハルも大喜びです。ハアハア・ヒイヒイいいながら妻を引っ張っていきます。私は妻たちの歩く速度にシニアカーのアクセルを調節して運転です。
昨日は川下に向かって散歩したのですが、今日は川上に向かっての散歩です。
日曜日、親子連れがたくさんいました。懐かしい土手滑りの仕方を子どもたちに教えているお父さんもいました。お母さんは花摘みに夢中のようでした。橋下で弁当を広げている家族集団もありました。大人も子どもものんびりとして本当に春を満喫しているようです。
我が家のハルは水が好きですから、水際まで降りられる箇所を見つけますと、すたこらと進んで水際まで行き、まず水を飲んでおもむろに足をつけ、ロープの届く範囲内をバシャバシャと喜んで歩き回っていました。
ちょうど私たちが行ったとき水辺の近くにマガモが4羽泳いでいました。犬を怖がるでもなく悠然と水浴びしたり、餌取をしていました。
散歩道を引き返しているとき、先ほど橋下で食事をしていた家族の子どもたちがマガモをそばで見ようとするのが、カモたちを追いかける形となり、カモたちは右往左往していました。こんなときは親がちゅういしないとけないのですがね。
来る途中、私の通っている外科医院の自動販売機で買っておいた飲み物をハルも一緒にお相伴しました。
一時間あまりのことでしたが、妻にとってもいい気分転換になったのではないでしょうか。
お父さんのほうが懐かしんで、 子どもに教えているのではないかな。 |
![]() 私も草滑りをよくして遊びましたよ。 |
![]() これは植えられたレンギョウでしょうね。 |
![]() 最近は珍しくなったシロツメグサです。 |
![]() こちらは昨日撮った川下の風景です。 |
![]() 今日撮った川上の風景です。 |
![]() カモも日向ぼっこ。向こうの人は誰かな。 |
![]() 犬が近くに来ても知らぬ顔でいるカモたち。 |
![]() レンタルですが、やはりあると便利です。 |
![]() どうも写真の嫌いな我が家の犬です。 なかなかカメラの方を向いてくれません。 |
4月20日
デイケアで花見
すごく遅いように思われますが、今日デイケアから花見に行きました。
行き先は隣郡になりますが、我が町を流れている芦田川水系に造られた「八田原ダム」(http://www.cgr.mlit.go.jp/hattabara/hattabara_page_00.htm)です。
ある人から聞いたことなのですが、デイケアでは施設の外に出かけることは出来ないのだそうです。だから花見とか紅葉狩り・初詣などに行きたければ、送迎の途中に立ち寄ったということにするのだそうです。
そう言えば初詣も、お迎え車ですぐ神社に行ってから施設に入っていたし、花見とか紅葉狩りの時も帰りの車で行っていますよ。弁当提げてと言うことは出来ないのです。
あいにくと今朝から雨。出かけるときの小雨ですが降っていて、主任が、「今日は残念ですが、車上からの花見になります。」といわれて、みんな残念そうでした。
もちろん山桜もソメイヨシノもいくら標高が高いとはいえ、もう終わっています。と言うことで、見に行くのは八重桜です。「14日はまだ咲き始めだったから、今日くらいはちょうど良い頃でしょう。」と、同乗のスタッフが教えてくれました。
私は送迎車の後部中央に車椅子のまま乗っていますので、目線の範囲しか車窓からの風景は見ることが出来ません。みんなが「わー咲いとる、ええなあ。」と感嘆の声を上げていてもよく分かりません。もちろん後ろを振り向くことも困難です。
せっかくデジカメを持っていても撮ることができません。スタッフがそのことに気がついてくれて、私の代わりに写真撮ってくれました。ありがとう。
今日の利用者たちは日頃の行いが良いのでしょう。駐車場に着いたときには雨が上がっていました。
「降りたい人は降りても良いですよ。」と言われて一番に降りたのは私でした。雨上がりで山には霧が掛かっていました。写真撮ったけど、やはりフィルターがないと良いようには撮れませんね。
駐車場の周りには残念なことに桜の木が一本しかありませんでした。でもその桜をバックに写真撮ってもらいました。本当はスタッフと一緒に撮りたかったのですが、「一緒に撮ろう。」と言えなくて。
桜の写真は自分で撮れなかったけれども、このダムの呼び物である[夢の吊り橋]がNice Angle でとることができ、それで満足しました。
もう一つの目的であった新人スタッフの写真も結局撮れませんでした。
わずかな時間でしたが、楽しめて良かったです。
4月22日
避難訓練
今日は旅館の避難訓練。
私が教頭になった時「防火管理者」の免許を取得し、学校の消防計画や避難訓練の実施計画などを企画していました。それで父が亡くなった後、旅館の防火管理者にもなりました。でも学校のことが忙しくて(言い逃れか)避難訓練できず、そうするうちにこの病気にもなり、出来ていませんでした。
私が倒れてから息子が帰ってきたので、息子に防火管理者の免許を取らせたのですが、未だに旅館の防火管理者は私になっています。早井内に息子に変更届をさせないといけないのですが。
ということで、消防局(現在は消防署ではなくて)の指導もあり、避難訓練をすることになりました。
当然避難訓練実施計画書なるものも私が作成しなくてはなりません。もう10年以上も前のこととなると忘れているものですね。それでも記憶をたどり、項目を立てていくうちにぼつぼつと思い出し、数日掛けて作り上げ、妻に持って行ってもらいました。前の消防局職員なら私のことを知っている人だらけだったのですが、今は知らない人ばかりです。知っていた人はここ数年で退職したり、他地域に移動したりでほとんど居られなくなりました。ですから妻が持って行っても、「これはよく勉強されていますね。」だって。まあ計画書の内容はともかく、訓練がうまくいけばいいのですけれどもね。
何せ家族3人と従業員2人の自衛消防団です。そのうち一人は86歳の母、そして私です。私は事前の指示と結果を把握するのみ。母はがんばってくれました。119への通報係になってくれたのです。こんなのは好きな方ですから、問題なく通報してくれました。たいしたバアサンです。
妻の方が慌てていました。火災報知器を鳴らすのもオドオド。あれほど大丈夫と言っていたのに、ガスの元栓を閉めるのを忘れました。
息子はメガフォンで火災発生を言って回るのにメガフォンの音量が小さかったり。帰って従業員の方が落ち着いていました。
訓練終了まで事前の打ち合わせと反省会を含めても30分そこそこでした。まあまあではなかったのかな。
でも消防局に報告すると、早いうちにまたやって下さい、といわれ連休明けにまたすることになった。
何だか私も久しぶりに緊張したようだ。消防計画もいつでも提出できるようにしておかなくっては。次の訓練が最後、後は息子に任せなきゃあいけないな。
4月24日
とても不安でした
今日は日曜日、ここのところちょっとがんばり過ぎたから朝寝してやろうと10時過ぎまで寝ていました。
ふと目覚めてベッド側のが紅掛けてある時計を見て10時過ぎなのは判ったのだが、分針がハッキリしないので反対の窓側の時計を見たら、10分になっていたので、『そうは言っても起きなくては。』と思って意識をハッキリさせようとしたとたん天井からぶら下がっている蛍光灯器具がグルグルと回り出したではないですか。びっくりして瞬きをしてみましたが目眩は強まるばかり。こりゃ変だと思いしばらく目をつむって目眩が治まるのを待つことにしました。
でもなかなか治まってくれません。いよいよ不安になって、何とか枕元の子機電話機を取って妻に電話しようと旅館の方へ掛けたのですが、妻ではなく母が出て、「ああ、正明さん。お母さん(妻)に言うから。」と言って一方的に切ってしまいました。最近はいつもそうです。
私は特に寝起きは思うようにしゃべられないものですから電話が繋がったらまず、「ああ。」とかせいぜい「僕」ぐらいしか第一声は言えないのです。それで母は私だということで、あと私が言いたいことも聞かないで切ってしまうのです。
もう一度かけ直す元気はありませんから、仕方なく妻の来るのをじっと待っていました。こういうときに限ってなかなか来ません。来たら、「お父さん何?」と、全くのんきな言葉。「目眩がする。」といってもどうもピンとこなかったようです。
目眩が治まり、起きてみることにして、服を着替え、顔を洗うために洗面所に行きかけましたが、むかつきが治まらず、頭もどんよりと重く痛くてたまらないので、ベッドの戻ってしまいました。このあたりから妻も『これは大変だ。』と思ったようです。
「どうしようか、救急車呼ぼうか?」というので「病院へ電話してみてくれ。」と頼んだら、何と妻は部屋の電話に病院の短縮がセットしてあるのも忘れ、旅館のほうの電話を掛けに行ったほどです。後から理由を聞くと、やはり舞い上がって忘れていて病院のくるり袋が旅館の方にあるので、それを見て掛けようと思ったそうである。
電話したが、あいにく先生は外出中で不在、「3時までには帰られるから帰られたら報告します。」と看護師さんの返事だったそうです。
「しばらく寝ていたら?」ということで、おとなしくベッドで目をつむっていたらいつの間にか寝ていました。
「お父さん、先生が往診してあげると、電話してくれちゃったよ。」の声で目が覚めました。それが2時半過ぎでした。
間無しに先生が来られて内診をされ、「先生はこの病気になってから鈍くなっとてじゃけえなあ。」と言われ、薬と点滴をしてくださった。今日は特に先生公私ともに忙しかったようなのに、来てくださり感謝しています。
おかげで薬が効いてきたのか、頭の痛いのも取れ、楽になりました。でも一日おとなしくベッドに横になっていました。もちろんパソコンもせず、好きな夕食の一杯も飲まずでした。
小渕元総理のこともあり、治まったものの不安はぬぐいきれませんでしたが、26日にリハビリに行っている病院で脳外科の診察を受け、「CTを見ても異常はないので一時的なものでしょう。小脳・脳幹梗塞をしていると不安定なので、こういう事もあります。日常生活に気をつけてください。」と言う死んだんでやっと安心しました。
ここのところ、自分でもちょっとオーバーワークだったように思います。自分の身体は自分で守らないといけませんね。注意します。
4月29日
これってもう夏じゃあない?
春の訪れが遅かったと思ったのは嘘のよう。ここの所初夏を思わすような陽気です。その陽気に誘われて(と書けば格好いいかな)、シニアカーで散歩しました。
行き先は私の通っている外科医院(この4月から病院から医院になりました)の庭にある藤棚です。先日26日にリハビリ室から満開の様子を見て、撮りに来ようと思っていたのです。
この前ハル(我が家の犬)を連れて行っているものだから、私がシニアカーに乗ると連れて行ってちょうだいとばかりにほえてこまりました。
目的地に着くあいだも花を撮りました。土手に咲く野草、たぶん委員の関係者が植えたであろう土手際の花も撮りました。
天気は非常に良かったのですが風が強く、行きに見たタンポポの綿帽子を帰りに撮ろうと思っていたのに、残念ながら帰りにはもう綿帽子はなくなっていました。
目的の藤はわずかに盛りを過ぎていましたけれど、まだまだ見事でした。棚の下が土ならもっと花が垂れ下がったのかも知れませんが、浄化槽のコンクリートなのでちょっと残念かな。
今日はあまりにも天気が良くって、藤棚のふじを取るのが難しかったです。オートでは暗くなるので、マニュアルでシャッター速度や絞りの値を変えながら何とか撮りました。
同じ庭にあるサツキも満開でしたが、そこへはシニアカーでは行くことが出来ず、遠景で写真を撮りました。
帰りはどうしてもタンポポの綿帽子が撮りたくて、川岸の遊歩道まで行きました。そこで良い具合に撮れましたよ。
POMの公園で花水木を撮りました。ピンクの花と白の花がありましたよ。
何よりの収穫は、川遊びしている子どもの姿を写真に収めることが出来たことです。何と今日は我が町も29.5度まで水銀柱が上ったそうです。
上半身裸の子どもが川に浸かり、それを母親が見ている、あるいは水遊びの後の子どもの身体を拭いてやっている母親の姿、そんな風景が撮れました。こんな風景本当に心を和ませてくれますよね。
散歩の後の入浴サービス、これも良かったですよ。
![]() ちょっとホテルみ たいな建物の病院 |
実際はもっと キレイでした |
花が藤色と白の 木があります |
都会では決して 味わえない風景 |
子ども達が うらやましいですね |
芥子の仲間かな。 かわいかったです |
日を一杯浴びて キレイでした |
![]() 私の知らない花です |
一番多く咲いて いた花、芝桜でしょ |
この後風に飛ばさ れたのだろうな |
こちらがピンク、向 こうが白の花水木 |
![]() ライラック今年は 花房一杯つけました |
5月 4日
デイケア新人さん紹介
やっとデイケアの新人さんを写真に収めることが出来たので、紹介しましょう。
2月から新しく二人が加わっています。
一人は以前デイケアの男子スタッフだったのですが、事務室務めとなり、デイケア利用者のケアスタッフになった人です。
デイケアスタッフだから、利用者ともっと話が出来なければいけないという上からの申し渡しで、デイケア室に常駐することになりました。
それと女子スタッフが加わりました。まだ10代とのこと。若さがうらやましいです。
4月から3人スタッフが増えました。いずれも今年採用になったピチピチの人たちです。一人が男性、後の二人が女性です。やる気満々、いつまでもその心を忘れないでもらいたいものです。
毎週カメラを持って通所しているのですが、なかなかいい写真が撮れなくて。私のデジカメは旧式になるので、シャッターチャンスに相当のずれがあり、撮ってみたら横を向いていたりなんてこと度々でした。
それと私自身が、構えての写真写りは撮りたくなかったこともあります。
来年2月には同じ経営者が福祉施設を立ち上げるので、そちらの方のスタッフになるかも知れませんが、それまではどうかよろしくお願いしますね。
5月7日
「これでお終いか?」
いやあ、もう終わりだと思いました。
今日は土曜日、いつも通りにリハビリを受けて(とは言え連休の余波か患者が多く予定より遅くなりましたが)、迎えの電話で妻が来ました。
私が車に乗ろうとしたときに、折悪しく救急車が入ってきたのです。そもそもはそこから妻の運転が狂ってきたのかも知れません。慌てるように玄関から離れ、「ちょっと今日はスーパーへ行くからね。」と言って土手道を通っていきました。何だか今日の運転は違うなとは思っていたのですが。
いつものように土手からスーパーに行く道に入ったのですが、この道は時々利用している道なのです。ちょっと狭くて車一台の幅なのです。対向車が来たときはどちらかが離合できるところまで避難しなければなりません。その上私たちの進行左側は溝川です。
一台目は軽自動車だったので難なく離合できました。二台目は普通乗用車のワゴン。ちょうど離合できるところに対向車が止まってくれたのでそこまで進み、「ここでストップ!」と私が言ったのに、妻は、「大丈夫、大丈夫。」と気楽な気持ちで進むではないですか。
内心私は、「こりゃやるぞ。」と思っていたら本当にやっちゃった。
「あ、これは左に切りすぎだ。」と感じたとたん、前輪がボンと浮き上がる。そしてすぐに「ガガガア」と足元ですごい音が。それでも車は止まらない。今度はストンと前輪が落ち込む。「もうダメだ」。だって助手席に乗っているのですから、このまま溝川に転落。ひっくり返って私は水の中。自分でどうこうできない身体ですから終わりだ、と瞬間思いました。
軽自動車だからでしょうか、徐行運転だったからでしょうか、悲劇にならずに済みました。たぶん妻がびっくりしてハンドルから手を一瞬離したのだろうと思います。だから前輪が縁石の上を走ってくれたのでしょう。車の三分の一以上は道路にあって、前後輪とも脱輪していたのに、傾きもしないで民家の塀にぶつかって止まりました。
妻は状況が瞬時には飲み込めなかったようで、「どうしたんだろう?」てな顔をしていました。
とにかく車のエンジンを止めさせました。対向車の人が心配そうに車から降りてこられます。「お父さんどうしよう?」「息子にまず電話しなさい。」息子と話をしているうちに少し落ち着きを戻したようです。「JAFに電話して。」と言ったのが対向車の人に聞こえたのか、電話番号を教えてくださいました。妻もJAFの会員証を免許証のケースに入れているのに忘れています。
その頃塀の人が出てこられました。私は分かっていたのですが、その家とは私の中学校からの友人(女性)の宅だったのです。ちょうど妻がJAFに事故現場の住所を言っているのところだったので、頼んで変わってもらいました。それで相手にスムーズに伝わりました。
長女同士が同い年で、妻もよく会って知っている仲でした。その上彼女の息子さんは、私が6年を受け持ったときに隣のクラスにいたのです。PTAの役員としても活動してもらっていました。とんでもないことでお世話になったものです。
その間にもどうやら長男が次男のところへ電話をしたみたいで、次男からも気遣いの電話がありました。次男は県北でやはりJAFの下請けをしているのです。息子の親方が来てくれるこれから来てくれるJAFなのです。これもまた因縁めいたものを感じざるを得ませんでした。
JAFが来て処理をしてくれるまで、私はその友人のおたくの庭で娘さんやお母さんと話していました。
車も元に戻り、運転にも異常はないようだったので、友人によくよくお礼を言ってやっとスーパーに行けました。
私が通院している内科病院のすぐ近くですし、彼女も彼女の母もその内科病院の利用者なので、先生にも知れるでしょう。もちろん看護師さん達にもね。まあ覚悟しておこう。
最近の妻の運転、気にはしていて、「おまえいつか事故るぞ!」って言っていたのが、現実になりました。でも本当に運が良かった。これで妻も気を引き締めて運転してくれると思います。
HPを移転しました
先月の18日頃だったと思うのですが、日記への添付画像が正常に表記しなくなりました。
どうしてだろうと、画像をいろいろなソフトで保存してホームページビルダーに挿入してみても同じ結果。
「ひょっとしてサーバーへのアップロードが正常にいっていないのでは?」と気がついてサーバーを開いてみると、やはりファイルが正常にアップロードされていません。
でもまだこの段階では気がついていませから、まだまだ色々やってみてもどうしてもうまくいきません。時間は浪費するばかりです。散々無駄な努力をしたあげく「これって容量不足から来ているのでは。」と、やっと気づきました。
案の定容量チェックをすると、やはりサーバーから提供されているHPの容量を超えてしまっていた。これではアップロードできるわけないじゃないですか。
そこで早速HPの容量を増やす事にしました。ところが私の加入しているプロバイダー、そのまま容量を増やすわけにはいきません。容量を多くしようとするためには、新しくドメインを取得しなければならないのです。前々から自分好みのドメインを持ちたいなとも思っていましたところでした。
と言うことでHPの容量増加と合わせて新しいドメインも取得しました。もちろん有料(年会費)ですから、また妻に怒られる材料を作ってしまいましたけど。
HPを移転するには、ちょっとやっかいなことがあったのです。
私は掲示板・日記・リンクをプロバイダーが提供しているCGIスクリプト以外を利用しています。ですからアドレスを変えたらCGIの設定も変更しなければなりません。その上前のHPのデータもそのまま移し替えたいというのですから、ちょっと時間が掛かりました。普通のHTMLなら簡単に移動できるのですが、CGIプログラムはちょっと難しいのです(私にとってはですが)。
リンク集は、前のHPのを移植すれば良かったのでしょうが、どういう訳かバージョンアップのプログラムを使ったら、どうしても作動してくれません。諦めてもう一つ気に入ったのがありましたので、そちらもやってみたのですが、やはりうまくいきません。それで日記と同じ人が作ったものを借りることにしました。このあたりやはり私の未熟さなのでしょうね。
移転を機にHPのTOPページのデザインも変えようかなと思ったのですが、自分らしさ(融通の利かない)を残すため、変えないことにしました。
どうも頭が固いのか、デザインを変えることに抵抗を覚えます。
とは言いながら、第2ページを変えてみました。ご意見お寄せくださればありがたいです。
前のHPアドレスはそのまま残りますので、「キノチャンのホームページPART2」として過去の記事を収めるのに使いたいと思っています。
どうか今後とも「キノチャンのホームページ」どうかよろしくお願いいたします。
最近のリハビリしているときの私です。自分はなかなか撮れなくて。
6月12日
やはり素人でしかない
ホームページの移転を無事済ませたと思っていたら、掲示板が書き込みできなくなっていました。自分ですぐ書き込みをして確かめれば良かったのに、画像がアップロードされているから成功と思っていたのが大間違い。
どうも書き込みがないなと思ってはいたのですが、それでも一週間ほど気がつきませんでした。自分で書き込みしようと思い、書いたらアップロードしてくれないではないですか。それでやっと気がついた次第です。一番に移植できたと喜んでいたのに、大失敗してしまいました。
ついでに各ページの背景をやはり変えていくことにしました。透かし画像を入れていっています。これも自分の気に入ったのを探すのが一苦労です。ゴテゴテしたのは性に合いません。
使わせてもらうのですから、リンクするのが当たり前。でも私のようにあちこちから収集していると、リンクバナーだらけになるし。ちょっと困ったなあ。
CGIスクリプトもそのまま使うのではせっかく勉強したのにもったいない、てな具合でちょこっと改造を試みるものの、やっぱり素人です。そんなにうまくいくわけありません。結局は改造ではなく、見栄えを変えるに留まる始末。時間の浪費かもしれないけれど、まあやってみただけは自分のものになるのだと自己満足しています。
それとサーバーによってCGIの設定の仕方が違うので、これが難しかったです。息子に言わせると「そりゃあお父さん勉強不足だ。」のひと言で片付けられましたけどね。
てな具合で、完成までにはまだ時間が掛かりそうです。
6月23日
珍道中・・ドジ踏んじゃった
今日は共済病院に薬を取りに行く日です。ところが、あいにく長男は食品衛生協会の研修日。それに妻も商工会議所女性部の会合が入っています。
以前は予約指定日後に取りに行っても、事務処理がスムーズだったのですが、移転後はそうはいかなくなってしまいました。何だか電算機の処理がうまくいかないのだそうです(プログラムミス?)。それで薬券が出るまでに、非常に時間が掛かるようになったのだそうです(息子曰く)。だから予約当日の今日、私がもらいに行くことにしたのです。
としたものの私も不安になってきました。何せ一番の問題は私の言葉を果たして理解してくれるかと言うことです。タクシーで行くわけですから、タクシーの運転手。それに病院の受け付け事務の人。行きはいいとしても帰りのタクシーを呼んでも分かってもらえるだろうか。タクシーならどれでも良いというわけにはいかないのです。市からタクシーチケットをもらっていますので、それを利用したいのです。でもそれは業者が指定してあり、福山の業者では使えないのです。
あれやこれやと考えているうちに、「そうだ、こういうときにヘルパーさんをお願いすればいいのだ。」と気がつき、昨夜妻に話したら、「私も不安で仕方なかったの。」と言うことでいつものヘルパーさんに予定伺いをしてみると、予定が詰まっているとのこと。誰でも良いからお願いしたいと、今朝ケアマネジャーに電話しました。そうしたら、ケアマネジャーの方で配慮をしてくださり、「木下さんには彼女でないと勤まらないでしょう。」といつものヘルパーさんが付いて行ってくださることになりました。もちろんそのヘルパーさんの予定していたところへは代理の人が行かれることになったのです。申し訳ない。
3時前に迎えに来てくださり、タクシーを呼んで乗り込み、「二人で珍道中しようね。」なんて戯言を言いながら共済病院へ向かいました。
病院に着いて、診察券を自動受付機に差し込み、受付切符を持って受付へ。そこで予約カードを提示したら、「支払い用自動電算機で処理をしてから薬を受け取ってください。」と受付嬢に言われました。
「これで良いの。えらい早いわね。お茶でもして帰りましょう。」と、楽しく話をしました。電算処理に10分ほどかかるので、10分後に支払い用自動電算機に診察券を通しても処理してくれない。さらに待ってカードを挿してもダメ。何度かやっていると「このカードは使えません。」というエラーが出る始末。
ヘルパーさんも困り果てて、「どうしてだろう。」てな具合になってしまいました。それでちょうど手空きになった受付嬢と目が合ったので、失礼だったのですが手招きで呼びました。
「もうずいぶんになるのですが、未だに電算機が処理できていないのですが?」とヘルパーさん。予約カードを見ていた受付嬢、「これ6月30日となっていますけど。」
なぜ?なぜ?今の今まで誰も気がつかなかったのだろう。私は私で勝手に今日が薬をもらう予約日と思いこんでいて、予約カードを見直してもいませんでした。妻も私の言うことを信じ切っていましたし、息子も今日はダメだと言うだけでカードを見たわけでもないし。もし息子がカードを見ていたら、「お父さんこりゃあ、23日ではないで、30日じゃが。」と言ってくれていたに違いないのに。
せっかくヘルパーさんまでお願いして取りに行ったのに、何というドジをしたものやら。「わー、失敗した。どうしよう?」と思っている間に、ヘルパーさん、「30日都合が悪いので、今日出していただけませんか?」と頼んでくださる。主治医がちょうど留守だったのですが、他の先生の方でカルテの処理をしてくださり、無事薬は出してもらえました。やれやれ、一安心です。
これが妻がやったことなら、大怒りしているところでしょうが、自分がやったことですから、誰にも文句が言われません。仕方なく笑って済ませましたが、恥ずかしい。
でも口では、「まあ、HPに書く良い材料ができたよ。」なんて自己満足してしまいました。もちろん帰って、妻と息子には笑われましたけどね。
という、とんでもないドジを踏んじゃった珍道中と相成りました。
今年はノウゼンカズラがあまりにもたくさん花を付けたので載せました。本当かどうか「雨の少ない年にはよく咲く」と言われているそうです。
これは全体の四分の一程度でしかありません
残念なことに活け花にはできません
神様は偶然がお好き
神様は偶然の出来事がお好きなようです。
何と何と、前々から会いたいなあと思っていた人に会うことができました。頃もころ、この日は七夕の日です。
この4月に退職した同輩(と言っても私より一年先輩です)と、その奥さんに出会うことができました。
場所は私の利用しているデイケアでです。
スタッフが「○○さん」と声掛けをしているのを聞いて、「ああ、新しい人が来たんだな。」ぐらいにしか思っていなくて、ご本人の顔もロクに見ていませんでした。
入浴が終わってコーヒーを飲んでいると、「○○ですが。」と女性の声。「あれ!〇〇ちゃんの声だ!]と思ってその声の方を見ると、間違いなく〇〇ちゃんでした。そしてその横には旦那である彼の姿が見えました。
「ああ、○○さんは〇〇ちゃんのお父さんだった。」とやっと気づいたのです。お母さんはよく知っていたのですが、お父さんはほとんどお目に掛かっていなかったので、顔も忘れていました。
〇〇ちゃんとは、幼なじみで小さい頃はよく遊んでいました。一緒に裸で水風呂に入ったのを覚えています。
彼女も小学校先生となり、私が教頭成り立ての時の学校で一緒でした。彼女は教頭となりましたが、家庭の都合で早めに辞めました。
また子ども同士が同い年で、子どもも幼・小とかわいがってもらいました。
偶然でしょうが、私と旦那さんが同時転勤になり、私が旦那さんの後任として赴任したのが、現職最後の学校だったのです。
旦那さんとは、特に管理職となってからは、より親しくしてもらい、いろいろと教えもいただいた人です。
と言うことですが、彼・彼女の姿を見るなり、居ても立ってもおられなくなり、彼らご夫婦の本来の目的もわきまえず、大急ぎで車椅子を漕いで会いに行きました。
彼らも私の顔を見るなり、たいそう驚いた様子でした。[おお、木下さんか。びっくりしたあ。あんたも此処を利用しているの?お父さんが今日から利用することになって、様子を見に来たんじゃ。」とのこと。
昼食までのしばらくの間、三人で近況を話し合いました。ところが、次の日にある人から聞いて知ったことなのですが、〇〇ちゃんが大病をして長期入院をしていたとのこと。そう言えば彼女帽子を脱ごうとしなかったな、と振り返ればそうだ。でも現役の頃より肥えて見えたのですが。
人の人生とは本当に分からないものですね。私が思っても見なかった脳梗塞に襲われるし、夫婦両方の両親の世話をされるしなければならない人もいるし。それでも自分たちの使命だと一生懸命尽くされています。私など足元にも及びません。自分の身体が回復したかと思えば、すぐ親の心配をされています。
主任に無理を言って、三人一緒の記念写真を撮ってもらいました。これがどういう訳か私のデジカメで撮ったとは思えないような上出来でした。ここに載せたいところなのですが。
午後父親のリハビリされている様子まで見て、彼らは帰りました。またの再会を誓って。
7月18日
来訪者4000人超えました
7月18日、ついに私のHPの訪問者が4000人を超えました。
一番最初は、1998年6月、旅館用のHPをLotus Wordからの立ち上げたのが、始まりです。
BIGLOBEで立ち上げたのですが、息子が「商用だから、個人用で上げてはダメだ。」と言うので、旅館用は息子に任せることにしたのです。
でもせっかくアドレス持っているのだから、自分用を作っちゃえ、てな事で始めたのです。
それが、2000年4月20日のことです。
最初は何も分からず、ただホームページビルダーに書き込むだけでした。
そのうち、「ただ乗っけているだけではつまらない。同病者にも読んでもらい、少しでも光を投げかけることが出来たらいいな。」と思うようになり、HP作成関係のwebを覗いてみては、自分なりに少し勉強しました(したつもり)。
訪問者を増やすなら、[META]部分に書き込みをすればいいなんてことも分かってきました。
2003年6月 市の広報に「広島県主催 障害者在宅ワーク支援研修」募集要項が載っており、その研修内容がホームページ作成だったのです。
妻が見つけ、私に勧めてくれました。どうせ受かることないだろうと思っていたら、運良く受かり、5ヶ月の研修を受けました。
障害者在宅ワーク支援を目的としているのですから、私もやってみようと就職活動をやりかけたのですが、自分の力のなさを知り、諦めました。
その代わりと言っては何ですが、せっかくの研修の結果を無駄にはしたくないので、自分のHPの充実をすることにしたのです。
HTMLだけでHPを作るのでは物足りない。CgiScriptも使ってみたい、javaScriptも使ってみたい、ということでプロバイダも替えました。
それが2004年1月からの大改造リニューアルです。
おかげで、大幅に訪問者が増えました。とは言っても内容が地味で真面目すぎるのでしょう、他の人のホーページのような伸びではありませんけど、掲示板やメールをいただいたら本当に嬉しいものです。
今まで何度もリニューアルをしながら、今日を迎えました。自分のデジカメ画像を加工して(もちろん初歩的な物ですが)はいけに使ってみるようにもなりました。
これからも自分の力で出来ることはやっていきたいと思っています。
どうぞ、これからもご支援お願いします。
7月25日
ドレミファフェスティバル
我が町では毎年7月下旬に三日間、「ドレミファフェスティバル」が催されます。今年は7月22日から24日まで行われました。
初日は「子ども音楽会」。市内の小学生による音楽発表会です。今年から合併した町の小学校も出場しました。
ミュージカル形式のもあれば、合唱もありで、一昔前の音楽発表会とは違い、バライティーに富んでいるようです。
かつての私は、子どもの合唱の指揮や指導もしていたのですが。この病気で倒れた年も合唱の指導を手伝っていたのですよ。
今は鑑賞に行きたくても、一人では行きづらいし、何より音が耳に応えるため行ってはいません。この写真は、借り物です。
23日がメインの日です。
フェスティバルが行われる市内中心地は交通規制が敷かれました。メイン会場が私の家のすぐそばです。
午後3時からは、出店テントも開かれるし、婚礼タンスでは名産地で有名な我が町ならではの出し物「タンスリレー」も行われました。
2度ほどは私の家の前が会場だったので見ていたのですが、すぐ隣の通りが拡張されてから、会場がそちらに移されてから見に行っていませんでした。今年はセニアカーを借りているので、自分で行ってみることが出来ました。
せっかく地域の人が見やすいところへ案内してくれたのに、袖に腕章をした人が前を塞ぎ、思うように見られませんでした。報道のためなら一切お構いなしのフリーパスなのでしょうか。
てな訳でたまたま出店を手伝っていた息子がいたので、写真は息子に撮ってもらいました。目の前に人がいてよく見えないので、2レースほどで見るのを諦め帰宅しました。勇んで行ったものの、後味の悪いものでした。
午後6時からがメイン行事、「ドレミファパレード」と「踊りカーニバル」です。私はパレードの音が聞こえるやいなや、車椅子に乗って家の前の通りで出ました。もちろん耳栓をしてですが。
これも5年くらい前から、パレードやカーニバルの審査会場が一つ信号の上手にあるため、家の前でちょうどパフォーマンスや踊りを止めるグループが多く、ちょっと迫力に欠けるところがありますが、がんばって9時まで見ました。
「ドレミファパレード」は、小学生の鼓笛隊から企業・町内会有志・ボランティアグループと幅広い団体のパレードです。ただ数年前から山車が少なくなってきているように思いました。人手不足(「私見る側」の人が増えているのでしょう)。
小学生の鼓笛隊では後輩が引率指導で付いていましたが、知らない人がほとんどでした。時代の代わりをまざまざと見せつけられた感じです。
それにひきかえ、団体グループは、同級生や勤務校だった町内会の保護者がまだまだたくさんがんばっておられました。顔を会わして笑顔の挨拶、わざわざ列を外れて声を掛けてくださる人、嬉しかったなあ。
途中から親友と二人で見物です。奥さんが娘さんの所に行って、目下独身中とのこと。口では「居なくてサッパリしたもんだ。」なんて言っていましたが、本音は寂しいのだろうなと思いましたよ。
「踊りカーニバル」では、今年は『マツケンサンバ』を数グループが踊ったことですね。「よさこいソーラン』も結構根強いです。盆踊り曲などを踊るグループはめっきり減りました。これもご時世でしょうか。やっぱり最後は迫力とボリュームですね。町内会で対象を競うのもいいものです。
妻は共催元である商工会議所女性部が出店のテントを出しており、我が家はゆかたの無料着付け所となっていて、私の出る幕は全く無しというか、邪魔になる存在。今月に入ってからは、しょっちゅう無視される日が続きました。息子も地域商店街の若手で忙しく立ち回っていました。
ですからフェスティバルの見学は「どうぞご自由に!」てな具合。とは言っても気になるのでしょう、様子伺いに来てくれていましたから。
夜寝る前に、「お父さん、今年もドレミファ見られて良かったね。」と、妻の言葉。この言葉来年も聞きたいものです。
24日フェスティバル最終日。小学生も指揮できた市民オーケストラの演奏会があったり、市内高校生や各種団体・ボランティアグループの催しものや出店があったりしました。
残念ですが、我が家は妻も息子も前日の後片付けが忙しく、それどころではなく、連れて行ってもらえるなんて。
それでも祭りのフィナーレを飾る夜の打ち上げ花火には、妻が車椅子を押して花火のよく見える土手まで連れて行ってくれました。
8時から始まったのですが、ちょうど電話が入って、15分ほど遅れてしまいました。
土手は家から5分もかからないところ、いつも通っている外科医院やPOM子どもの国のこちら岸です。
今夜は出足が躓いたためか失敗続きでした。
いいところに陣取って、よし、写真を撮ろう、としたら何とメモリーカードがカメラに装填されていないではないか。撮るのを諦めていたら、妻が「どこに置いとるん、取ってきたぎょう。」と言ってわざわざ取りに帰ってくれました。
一人花火を見ながら、泡ジュースでも飲もうと思い、車椅子の後ろポケットを探っても無い。「女房のヤロウ、慌てて出たから置き忘れたにちがいない。」と一人残念がることしきりです。
妻がカードを持ってきてくれ、写真は撮れだしたのですが・・
妻に、「泡ジュース忘れてきた。」と言ったら、「何言ようてん。ここにちゃんとぶら下げてあるが。」と取っ手のところにぶら下げてあった泡ジュースを手渡してくれる。
やれやれ一安心、はまだ早かった。今度はいつもポシェットに入れてあるはずのストローがない。缶から直に飲むことが非常に下手な私ですが、そこはそれ好きなものは何とかで、口からこぼしながらも飲んでしまい、妻にも笑われました。
でもこれでは終わらなかったのです。カメラの電池が無くなってしまい、一番いいところが撮れなかったのです。わざわざカメラだけ持ってきたのが間違いの元。これまたいつもはケースごと首にぶら下げて持っているのに。もしもに備えてケースには予備電池とカードも入っているのです。何でこんな日にいつもと違うことをしてしまったのだろう。悔やまれてならない花火大会の日となりました。で、いいとこ花火の画像は借り物です。
![]() これが私のデジカメでは、ギリギリかな。 |
かえって幻想的に撮れたかな、なんて強がりを言ってみましたものの・・ |
花火はやっぱり銀板カメラがいいのかな。シャッターチャンスを絶対に逃さないから。 |
![]() さすが新聞社のカメラマン |
オチのついた今年のドレミファフェスティバルでした。
(注 写真に注釈の入った画像は、全て「よみうり 府中ニュース」より転載させていただいています)
7月30日
デイケア施設の「夏祭り」
今年もデイケア施設の「夏祭り」が行われました。例年より二週間遅かったように思います。
残念ながら旅館に客があり、妻と参加することが出来ませんでした。ですからまたまた友人に連れて行ってもらいました。友人は施設の関係者で、いわゆる招待者になるのでしょう。
先日リハビリしているときに理事長と話をすることがあり、その時に私が、「夏祭りには○○さんにお世話になろうと思っているんです。」と言ったら、すぐに理事長は○○さんに電話を入れて、私を連れて来てやってほしいと依頼されました。まだ私自身は友人とは連絡を取っていなかったのですが。
「木下さん、○○さんには私からも頼んでおいたからね。」と。ちょっとびっくりしましたが、ありがたいことです。
その友人とは、ドレミファフェスティバルの時一緒に見物した友人です。
前置きが長くなりましたが、友人ご夫婦で迎えに来てくれました。施設内でも彼のことを知っているのは上層部の一部の人だけです。だから私としては逆にありがたいことです。
デイケアの主任が席を指定してくれました。中央より左手になるのですが、前列になるので写真を撮るにはまあ満足しなければならない位置でした。
型通り主催者側の挨拶から「夏祭り」が始まりました。参加者は、利用者とその家族・職員の家族。それに地域の人たち。そしてボランティアの人たちです。結構な人でしたよ。
一番手は「如水館中高学校」生徒による『チアリーディング』の演技です。若さ溢れる演技、実に可愛くて清々しかったですよ。
私にもこんな青春時代があったんだ、と懐かしき若き頃を思い出しましたよ。
まだ明るかったので、連射撮影をしてみました。連続再生すると、結構その場の雰囲気が伝わるのですが、HP上ではちょっと無理のようです。
![]() 主催者のご挨拶。 |
「チアガールズ」達はスタンバイ。 |
若い子の演技が始まりました。 |
![]() |
![]() 心一つにしないと出来ないですよ。 |
さあ、ポーズ決まったでしょう。 |
上の子が跳んだので、こんな写真になりました。 |
若さ溢れる演技。 その若さをちょっといただきましたよ。 |
お祭りですから、飲み食いが当然付きもの。あらかじめ施設から渡されていた金権で好きなものと交換です。
でも私がもらった金券では、ビール一杯買ったらもうなくなります。後は金券を買わなければなりません。
本当にありがたいことですが、友人がその金券を結構もらっていて、それを使って私にいろいろと食べ物を買ってくれました。
私の介助者となり、はたまた財布代わりにまでなってもらい、何から何までお世話になりっぱなしとなりました。
お天気の方もおかげでそんなに暑いというほどでもなくて、まあ凌ぎやすかった方ではないでしょうか。
適当に食べながら飲みながら、職員や演技者の写真を撮りました。今年はデイケアの職員が、私のカメラのファインダー内になかなか入ってくれませんでした。
それでもトイレの行き帰りに見つけて撮りましたが、思うようなのが撮れず、少々残念でした。
看護師長さんの浴衣姿や、元デイケア主任の浴衣姿、まあまあの出来で撮れました。それと若い職員の、懸命な姿様子が撮れたのは良かったかな。
電動工具やダイカスト製品・業務用印刷機のメーカーで、我が町に本社のある「リョービ」の従業員が結成している、ミュージック・グループの演奏もありました。団員の中に保護者だった人がおられました。顔は変わっていないのですぐ分かりましたが、頭には白いものが相当目だっていました。その人を知ってからもう十数年だものなあ。
演奏曲目は、鑑賞者の年齢に合わせてものが多かったです。配慮されていたのだと思います。
ここでも「マツケンサンバ」が登場しました。それに合わせて職員と入所利用者が、一緒に踊っていました。とは言っても、職員が無理矢理手を引いてデッキに連れ出し、踊らせていたというのが本当かな。でもそのおばあちゃん、とても嬉しそうでしたよ。踊ったなんて何年ぶりだったんでしょう。その様子の写真を撮ったのですが、出来が悪くて載せられませんでした。
最後は、職員による「よさこいソーラン」です。練習が大変だったと思います。特に入所者を世話している職員は、夜勤もあったりだから、練習参加も難しかったことでしょう。
本当に忙しい仕事を終えてからの練習、ご苦労様でした。
去年より一段アップして踊り内容でした。踊りそのものよりも、職員みんなが踊りに打ち込んでいるその姿・顔がよかったです。
施設が増えている中、職員態勢が問われているときです。利用者に対しても、踊りに打ち込んだその気持ちで接してくださいね。
わずか二時間ほどでしたが、友人ご夫婦のご厚意で楽しい一時を過ごさせてもらいました。
帰りも我が家まで送ってもらいました。
「持つべきは友」なんて簡単な言葉で言ったら失礼なのですが、「○○さんと奥さん、本当にお世話になり、ありがとうございました。」
盆踊り大会 二題
8月6日と13日と元勤務校校区地域と我が町の盆踊り大会に参加(?)しました。
8月 6日
ペルパーさんご夫婦の本当に個人的なご厚意で、盆踊り大会に招待されました。
去年も参加させていただいたのですが、私が平教員最後の勤務校区内にある地域です。地域が広い所為か、教え子や世話になった保護者も多くおられます。
会場は、何度か紹介している蒸気機関車の置いてある公園です。
着くと入り口横の建ててある本部席に、もう知った顔が見受けられます。まだ完全に日が落ちていなかったので、お互い黙礼です。さっと言葉が出るものならいいのになあと、こんな時思います。
最初に連れて行ってもらった場所は、拡声器の音がまともに届くところだったので、反対のところに場所替えしました。
踊りの進行をしている人は、私の子どもの幼稚園の園長さん。そして子どもさんが私の隣のクラスだったのです。まだまだ元気いっぱい。
やぐらの上でマイクを持っている人は、これまた私の教え子のお母さん。
楽しませてもらいました。教え子と再会でき、話をし、写真も撮りました。お母さん達とも久しぶりに話が出来ました。
何せ赴任早々6年生を担任さされ、その子たちが長男と同学年になるし、最後に担任した子たちは次男と同学年だし、個人的にも関係の深い教え子達です。
教え子達とは、来年の再会を約束したのですが・・・会えることを祈ります。
![]() 後ろにc62機関車があるの分かりますか? |
![]() |
![]() 泡ジュースを飲んで、おでんをパクつきました。 |
![]() ピンボケのところが、盆踊り風景をかもし出していませんか。 |
![]() 保護者だったときは、とても活きのいいお父ちゃんでした。 |
![]() 担任したときは11歳だったのですが、今は立派なお母さん。 |
今夜も旅館には客があり、妻が一緒というわけにはいかず、ヘルパーさんご夫婦にお世話になりっぱなし。本当にお世話になり、楽しい一時を作っていただき、ありがとうございました。
8月13日
今夜は私の住んでいる地域の「盆踊り大会」。
実はヘルパーさんご夫婦にお誘いの声がけをしてみたのですが、先約があり実現しませんでした。
旅館もお客を抱えていて、妻に連れて行ってもらうわけにはいきません。と言うことで、息子にい連れて行ってもらうことになりました。
ところが息子のやつ、予定の時間になっても連れて行ってくれない。母親が電話すると、どうも寝ていたらしいと。一番暑い頃に墓掃除に行って疲れたみたいだ。私に似て、丁寧な掃除をしたのでしょう、一時間以上の時間を掛けていましたから。
車椅子で行きました。息子も「電動で来ればよかったなあ。」と言っていましたけど。
会場に着いたら、ちょうど休憩時間。でもその間に息子は引換券で飲み物とつまみをもらってきてくれました。
近所で小中と一緒だった同級生とも話をしました。一般企業だから定年を迎え、年金暮らしだとは言っていましたが、やぐらの中で活躍していました。
またお世話になった元保育所所長さんにも再会しました。私は涙の対面です。「見舞いに行った人の話では、木下先生はもうダメだ。」と言うことになっていたらしいです。「ようもここまで回復されて!良かったですが。」と言われれば、またまた涙です。
近所のガキだった子も、子連れで来ています。我が子も甲斐性が有ったらなあと思ってみたものの、こればかりはどうも・・
書くのを忘れましたがこの会場は、河川敷で私がリハビリに通っている病院のそばです。国土交通省が護岸工事を兼ねて整備をしてくれ、その管理を地域に委託しているのです。それも今年も手を加えてくれて、河川敷に下りる坂も緩やかなスロープにしてあります。いざというときの避難場所や駐車場にもなっているからでしょう。車椅子を押しても楽に上り下りできるようになっています。息子が楽だと言ったので、そうだろうと思います。
デジカメで撮ったのですが、外部ストロボを持って行けば良かったと悔やまれました。やはり内蔵ストロボでは完全に容量不足。それに加えてシャッターの切れるのが遅いのと重なり、思うようなのは一枚も撮れませんでした。それでもと言うのも載せていますけど。
地域の行事に出て、顔を見せるのも大事です。何せ私は再起不能で寝たきりだという風に思われているらしいからです。息子のためにも父は身体こそ障害者ですが、まだ頭はシャンとしています、を見てもらわないといけないですからね。それが田舎の実態です。
楽しく飲みながら食べながら、古知の人とも再会して話も出来、本当に短い時間でしたが楽しい時間を過ごせました。息子に感謝します。お父さんにビールを一本譲ってくれたものね。ありがとう。
これで、セニアカーで行かなかったわけがお分かりでしょう。そう飲酒運転になってはいけないからでした。
8月18日は脳梗塞発病10年目を迎えることになります。どうか無事に迎えることが出来ますように。
8月16日
教え子が来てくれました
久しぶりに教え子が来てくれました。
長い間臨時教員として、中小学校と勤めていましたが、昨年関東の方で小学校教諭として正式採用となり、頑張ってくれています。
お盆休みで帰省し、忙しくしていたらしく帰る日になって、「会って帰らないと。」と来てくれました。
採用2年目で6年生の担任となっています。しかも昨年担任と子どもとの間で問題のあった学年だそうです。ちょうど私がこの子を担任した時のケースによく似ています。
20年近く前と今とは子どもの環境も違うので、どうとも言えませんが、学級が崩壊するのは、やはり私は担任の責任だと思います。
教員は常に子どもと向き合っていなければなりません。考えようによっては我が子以上に手抜き教育ナンテできません。
自分の確固たる教育理論と信念を持つことが大事です。ただし自己満足は禁物です。
子どもは教師に対しては正直です。「あ、この先生は私のこと思ってくれている。」と感じたら、まず教師が裏切らない限り、子どもは教師についてきてくれます。
私は教師は決して聖職者だとは思っていません。しかし、未来を担う子の教育を任されているんだ、と言うことを忘れてもらっては困ります。
今の若者の多くは、自由と権利を間違って使っています。自由とは何が土台となって自由なのか、権利の前に義務があるなんてこと分かっていないのが多いんじゃないかな。それを教えていないのが、教師だと言ってもいいです。
サラリーマン先生では、こうなるでしょう。ただ上から言われた机上プランを消化して、子どもと正面から向き合うこと・触れ合うことを忘れた教師たち。私から言わせれば、そんなの教師じゃありません。
今の先生、教室の中だけでの子どもの様子で、子どもを見ていることが多いのではないでしょうか。そんなの子どもが見せる顔のほんの一部分です。休憩時間に見せる顔・給食の時の顔・運動場での顔、と様々な顔を見せてくれます。もちろん家庭で見せる顔があります。
だから家庭との連携も必要なのです。気になる子がいれば、家庭に出向くことも必要でしょう。親を呼びつけたのでは、家庭の雰囲気は十分つかめません。また親も置きを許して本音をなかなか語ってはくれません。親も教師が本気だと言うことが分かると本音でぶつかってくれます。
一人の教師では何も出来ないかもしれませんが、でも今の教師何とかしないと、心を呼び戻す教育をしなければ、日本潰れてしまうよ。
ちょっと意味が繋がらないとか、何言ってるのとかがあるかもしれませんが、ちょっとぶってしまいました。教え子とはそんな話をしました。
二時間ほどの語らいでしたが、私も久しぶりに教育について語ることが出来て、10年前に帰ったような気になりました。彼女も「これからも子どもたちと真正面に向き合って、共に学び合っていきます。」と言って別れました。
今の世の中、なかなか難しいことだろうけれども、頑張ってちょうだいね。
8月18日
記念日
8月18日は、私の記念日です。何の記念日か?って。脳梗塞になった日です。今日は10年目の記念日です。
記念日だなんて書くと他人事のようですが、本人・家族にとっては忘れることの出来ない日なのです。
本当に私は運の良い人間だと思っています。日曜日で高速道のサービスエリアに駐車した途端の発病。救急車で搬送された病院が、脳外科診療のある総合病院。しかも当直医が脳外科専門医師だったのですから。
言われるには小脳と脳幹梗塞になったらまず命も助からないのが普通だと考えられており、車椅子に乗っての生活が出来るなんて、まず考えられないことだそうだ。変な言い方ですが、若くしてなったから生命力と体力があったからこそと思います。
あれから10年になるわけですが、本当に家族の私に掛ける苦労は計り知れないものがあったと思います。当のご本人は、ともすればやってくれるのが家族として当たり前だ、なんてうがった気持ちに陥っていますが、家族の心境はもっともっとすごいものがあったと思っています。
自分自身が心しなければならないことなのですが、してもらうことが当たり前になってきていることです。してもらえなければ不足を言う。これが一番悪いことだとは分かっているのですが・・・
妻は言っています。「お父さんが倒れたとき、私の主人がこんな病気に負けることはない。きっと回復すると。それを信じて看病したの。」と。
直接妻には言えないけれど、今の私はどうだろう。妻に不足タラタラ。恩知らずみたいです。ごめんよ、かあさん、心の本音は感謝で一杯なんだよ。結局は妻に甘えているのですよね。
まだまだ先は長いかもしれません。どうかよろしくお願いいたしますね、かあさん。
これが道路公団の実態だ!
先月8月9日の事です。日記にも書いていますが、ペースメーカー検診のため国立岡山医療センターへ行っての帰りの出来事でした。
出来事をもう一度書いてみます。(修正加筆しています)
帰り、下り吉備サービルエリアで食事。和食レストラン「吉備路」だったかな。
ちょうど込む時間だったからだろうとは思うが、隣の席に座っている介助者の息子に席を立つよう促したのだ。
私は、健常者と比べものにならないほど食事時間が掛かる。片方は若者だから食べのも早い。私が食事中にはいつ咽せるかもしれないことを知っている息子は、隣の席に座って私の様子を窺いながら携帯電話をいじっていたのが悪かったのか?
介護者・介助者は障害者にとっては目となり足となる人なのに。
しかし客が込んでいる時にいつまでも席にいるなと言うことだろう。どう見ても店長らしき人物が、息子に席を立つよう促したのだ。しかも「恐れ入りますが。」ではない。いかにも商売に邪魔になるから席を外してくれと言わんばかりだった。
介護者・介助者に商売の邪魔だから席を立てと言うことは、障害者も早く出て行けと言っていることと同じ行為ではないか。
私は腹を立て、まだ全部食べていなかったが終わりにして席を立ってしまった。息子もよくガマンしていたと思う。
喋ることがまともに出来たら、その場で文句を言うところだったのだが。
道路公団へ訴えてやる!。
病院へ行くのも旅行のような気分の私。だって、病院へ行くのでなけりゃ、高速道を走ることもほとんどないし、ましてや外で食事が出来るなんて滅多とないことなのだから。
そこで次の日か二日後くらいに道路公団のHPを検索で探し出し、「何でもQ&A」に今回のことを抗議しました。
自分の個人情報も漏らさず書きました。まあ、お盆前だからお盆が終わってからでも何らかの反応があるだろうと思って待っていました。
しかし今日まで何の反応もありません。いったいどうなっているのでしょう。確かにことわり文の中に、「お客様からいただきましたご意見・ご要望・ご質問は、JHの業務に役立てるよう必ず目を通しておりますが、個別に返信、対応しかねる場合もございますので、ご了承ください。 」と書いてはありますが、こういう問題は利用者に返すべきではないでしょうか。
企業だったら即座に反応があるのですが。
風袋だけは立派なようにしてあっても、中身がこれでは本当に道路公団の実態を垣間見たような気がしました。いち早くICやPEには障害者トイレを完備したし。障害者には優しい公団だなあ、と思っていた私だったのに。そう言えば障害者専用駐車場は、トイレから結構遠かったなあ。
利用者の意見で気に入らないのは、蹴るのでしょうか。それとも利用上の抗議が多くて処理しきれないのでしょうか。それでは決して道路公団の意識改革は出来ませんよ。こんなのだったら、始めから御意見箱なんて置かなきゃいいのに。
余分なことだけれども、公団民営化に反対した国会議員さん、あなた方にも大いに責任がありますよ。甘い汁だけはいただきながら。その汁が吸えなくなるから反対なさったのですよね。
サービスエリアに入る業者も公団が決めるのでしょう。それだったら入る業者に公団の方針が伝わっているはずですよね。
そりゃあ利用したレストランもちゃんと車椅子用の席も設けてあり、そこへ案内され、息子と二人で「細かい配慮をしてくれているね。」と感心したのに。あれはカッコだけのものだったんですね。
小さな事ですが、この小さな事が大事なんじゃあないでしょうか。私がカリカリし過ぎなのでしょうか。でもサービス業でしょう。利用者あっての公団じゃあないのですか。
今私は新聞に投書してみようかなと思っています。公団側がどういう反応に出られるかぜひ見てみたいのです。
9月14日
デイケアの敬老会
デイケア施設で「敬老会」がありました。70歳にはなっていませんが、施設利用者の一人として参加させてもらいました。でもまあ、おじいちゃんには違いないのだからいいか。
過去4回は私の利用している曜日ではない日にあったので、初めての参加でした。
この施設は医療法人で、介護老人保健施設です。介護老人福祉施設はしないにも3ヵ所ありますが、介護老人保健施設はここだけです。
でなぜ私がこの施設を利用するようになったかというと、病院でのリハビリが週3日だったのが2日に減ったので、その埋め合わせをどうしたらよいか市の保健士さんに相談したところ、社会福祉協議会のケアマネジャーを紹介してくださったのです。
保健施設だから介護保険の適用を受けていれば利用させてもらえるのです。
まだ開設2ヶ月で水曜日の利用者は私を含めて4人だったのに、今は多いときには40人を超えています。まだ二人当時からの利用者がおられますよ。
ちょっと余談にそれましたが、本題に戻りましょう。
お昼の食事も豪華でした。鯛・ハマチの刺身。刺身が出たのは私初めてです。赤飯・鯛の酒蒸し。蟹の足の入った茶碗蒸し。そして鱧の吸い物。フルーツはミニパフェ風。行事に巡り会えば、こうして豪勢な料理が出るのでしょうね。
午後のリハビリは中止です。スピーカーをセットされているので、こりゃ耳栓しないといけないな。
スタッフなら誰でも私が写真を撮ることを知っています。だから良い席へ連れて行ってくださったのですが、そこはちょうど右にスピーカーがあるところ。「ごめんだけど、スピーカーから遠いところにお願い。」ということで反対側に。
会場の都合でステージが二カ所設営してあり、私はそのちょうど中間点でした。
いよいよ「敬老会」の始まりです。職員が司会者で進められました。
私はデジカメ本体のストロボでは容量が小さいので一眼レフカメラ用のストロボを外付けして写真を撮りました。しかしデジカメ純正ではないので、一々手動で光量の調節をしなければいけません。最近は大体の調節の仕方が分かったので、あまり失敗はしなくなりました。それでも前の設定の間まとって失敗することはあります。
新年会の時はにぎり寿司ですが、今日はめでたいで鯛づくし。 |
他の日とは全然メニューが違うでしょう。 |
司会の二人。女性は二週間前までデイのスタッフでした。 |
いろいろな企業からのお祝いレタックスとゆうパックが。 |
職員手作りのプログラムを張り出して。大変だ。 |
今日は民謡と歌・踊りの出し物。こちらではちょっと有名な民謡歌手・NHKでも歌っていましたが、原田直希の門下生の方たちです。踊りはこの地方の花笠踊り「なごみの会」の人たち。
私の最初のうちは楽しんで見たり聞いたり、写真を撮ったりとしていたのですが、会の三分の一過ぎたあたりから頭痛がしてきました。
この病気になって右耳が難聴となり、ちょっと大きな音だとそれが雑音となり、頭痛を引き起こすのです。それで右耳に耳栓をするとまあ何とか耐えられるのですが、今回はその限度を超えていました。
近くに副主任がおられたので訴えると、避難させてくださり何とか一安心。写真を撮れなくなってちょっと残念でした。
まずは歌と踊り・演奏と、一緒に始まりました。 |
![]() やはりお年寄りの好みそうな曲が選んでありました。 |
サブステージ側。 何せ利用者だけで100人を超すのですから。 |
きちんと囃子太鼓も加わって演奏されました。 |
銭太鼓。スタッフも誕生会などでよくしてくれますよ。 |
あでやかなのも一点取りますよね。 |
傘も綺麗。衣装も綺麗でした。踊っている人も素敵。 |
三度笠を着ての熱唱。やんやの喝采でした。 |
にぎやかだった会も終わり、入所者が引き上げた後、おやつの時間。おやつには紅白ねりきりと昆布茶。まだ頭痛の残っている私は食べられませんでした。
結局頭痛が治まったのは、帰宅してベッドにしばらく横になった後でした。
デイケアでの誕生会
10月21日は60歳の誕生日を迎えます。還暦です。
デイケアで誕生日を祝ってもらいました。毎月第三週に誕生日会があります。他の人の誕生日会にはリハビリ中でほとんど参加できませんが、自分が祝ってもらうときにはそうはいきません。
療法士の先生も、「主役がいないのではいけないでしょう。」といつもよりも訓練を少なめに。それでも会の始まるギリギリまでベッドでストレッチをしてくださった。
いよいよ会の始まり。私は最後に先生に車椅子を押してもらっての入場となりました。 両側からおめでとうの声と紙吹雪をいっぱいもらいました。
この施設を利用し始めて5年、毎年あったのですが、2回ほど入院中のため参加できませんでした。
初めて祝ってもらったときには感激の涙が出たのを覚えています。今日も泣くかなと覚悟はしていたのですが、何とかガマンできました。
無理を言って副主任に写真を撮ってもらいました。わざわざ今日の日のために、入浴介助のヘルパーさんのご主人からお借りしていたデジカメ、役に立ちました。
今日は3人が祝ってもらいました。といってもすでに他の曜日に誕生日のお祝いを済ませておられる方で、今月生まれの人があと二人おられたので、その人たちも紹介されました。
スタッフの進行係から紹介されたとき、私は泣くのをこらえるのが必死だったものですから、上を向くことが出来ず、皆さんに失礼なことをしてしまいました。
紹介が終わって「HAPPY BIRTHDAY」を一人ずつ歌ってもらいました。そのあと部屋を暗くして、灯されたCandleを吹き消しました。うまく一息で吹き消されるかなと不安でしたが、うまく呼吸が整って一吹きで消すことが出来ました。
部屋を明るくしたところで、施設から写真入りのカレンダーをいただきました。例年デザインが凝ってきているようです。
前座が終わって、ケーキが配られました。今日祝ってもらう人には、フルーツのおまけ付きです。ここの所急いでおやつを食べているのですが、今日はゆっくり味わいながらいただくことが出来ました。
その間に午前中に朱墨で押していた手形の色紙に、みんな(といっても大勢なのでグループの人)で寄せ書きや飾りをしてくださいました。
何でも楽しい一時というのはすぐ経つものですね。あっという間にお帰りの時間になってしまいました。来年もまた祝ってもらえますように。
10月21日
還 暦
とうとう還暦を迎えました。私にとっては、本当におかげさまで、と言うべきだろうと思います。
変な言い方になりますが、今日まで私を支えてくださった多くの方、それに妻をはじめとする家族みんなのお陰で今日が迎えられたのだと、痛感しております。感謝のひと言です。
命という事に限って言えば、私は本当に運に恵まれていたものだと、我ながら改めて思っています。
母のお腹にいるときに、広島の原爆から逃れた事が最初の運の良さでしょう。
終戦直後、物不足から栄養失調となっていた私。そこへ父の教え子(ニュージーランド留学生)が連合軍兵士としてやって来て、父に会いに来たのです。そして痩せ細った私を見て、ミルクなどを横流ししてくれたおかげで助かったのだそうです。
亡父は晩年その人に会いに行きたかったようで、住所を調べてもらったのですが、結局分かりませんでした。
27歳の時には、雨の夜オートバイに乗っていて時速50qのスピードで転倒し、頭を電柱にぶっつけたのですが、その時は無傷でした。まあ運動しなくなってから首や脊柱に異常が出てきましたけれど。
そのときも、もうダメだ!と思いました。転倒して電柱にぶつかる間のわずか2秒ほどの間に、妻や子供の顔がパ・パ・パと過ぎりましたよ。
あとはプロフィールの病歴にも書いているように、何度も三途の川を渡りかけては戻ってきました。花園を見る手前で亡祖母に、「あんた、何しに来たん。まだ早いけえ帰り。」と言われて帰ってきた私です。その時亡父は、「おう正明、来たか。」と言ったのですが、それを聞いていると今の私は無かったでしょうね。おばあちゃんに感謝です。
で私のこれまでの生き方を振り返ってみると、何だか地に足が付いていないような生き方だったような気がします。
小学校の頃は、結構正義派で真面目一方の人間でした。友人の不正を糾したりしていたのですから。まあ勉強の方もそこそこしていたと思います。
真面目は今もそうですが、正義感は薄れましたね。それと段々勉強嫌いになってきました。高校進学の時は父母を不安がらせました。で、ちょっと気を入れて勉強し、何とか地元の県立高校へ。
おかしな話ですが私は、東小学校から第二中学校に行ったら、地元の県立高校へ行くのが当たり前と思っていたのですから。だから本気で勉強なんて。よく遊びました。
大学も叔父・叔母のお陰もあり、思う大学に進学でき、就職も地元に帰ることができ(本音は帰りたくなかったのですけど)、今の妻と出会い、子宝にも恵まれ、仕事も人一倍努力したとは思っていないのですが、一応人様に認められるような事をさせてもらい、校長にまでならせていただきました。
家が旅館業をしているため、仕事の愚痴は妻にもほとんどこぼさなかったように思います。その分が酒とタバコに行ったのかも。それが成人病の引き金になったのだろうと思います。優等生の回答のようですが、今は本当にそう思っています。決して我が家の商売や妻に対して愚痴を言っているのではありません。
よく亡父に言われていました。「お前には受け身しか教えていないから、自ら攻撃をすることを知らない。」と。
亡父は剣道の師範でした。戦前にあった武道専門学校の出ですから、筋金入りです。その父に教わったのですが、わかいときにはなぜか運動能力に欠けていて父の思うような弟子には成えませんでした。
その通り今自分の置かれている立場は理解し、消化はきちんと出来るのですが、じゃあこれをやってみようと言う部分は弱かったように思います。いわゆる独自性に欠けていたのだと思います。自分が管理職に就くと、そのことに気を遣いました。そんな気疲れが今の私となっているのかも知れません。
いろいろと言い訳のようなことまで書いて、還暦を迎えたことに対して何を言っているのか分からなくなりましたが、ひと言で言えば、こんな身体にはなりましたが、恵まれた人生だなあと言うことです。
この身体、もう元へは戻りません。すでに医者からも筋力の衰えを指摘されました。これからは衰えることが続いても良くなることはありません。
でも与えられた命、家族・その他の人たちの助けをいただいて、長らえたいと思っています。
妻へ直接言えないからここで言います。「かあさん、無茶ばかり言うおとうさんだけど、よろしく頼みますね。」
![]() 何と小学校1年生の学芸会では金太郎になりました。 |
![]() 何と写真の裏には直筆を残していました。1951年、半世紀以上前ですね。 |
![]() 1964年、大学1年の学生寮(塾)での私の机の周りの様子です。 |
![]() 1966年、父母が上京して来た時、妹と一緒に上の文化会館で。当時父49歳、母は46歳の若さでした。 |
![]() それがこれこの通り還暦を迎えてしまいました。 |
10月27日
デイケアで「遠足」
妻の都合で昨日のデイケアを今日に振り替えての通所。今週は午後「遠足」なのです。
昨日は雨が降ったりしてハッキリとしない天気だったのに、今日はまさに秋晴れ、絶好の「遠足」日和となりました。
午後のリハビリがカットされるので、入浴が早く終わったのを幸いに、リハビリを少ししました。療法士の先生にストレッチもしてもらいました。「木下さんが午前中にリハビリをするなんて、おいおい雨が降るんじゃないの。」なんて言われましたけどね。
昼食後のお昼寝が終わって(実は昨夜膝が痛くて寝られなかったので、いつもより少ない時間だったのにぐっすり寝てしまい、起きたときは身体がシャンとしないで困ったけど)、トイレを済ませて乗車。いざ円鍔記念公園まで。
円鍔記念公園は、広島平和記念公園内に数多く建ててある像(平和の女神像‘動員学徒慰霊塔’・平和の像「若葉」・平和祈念像 などの制作者である円鍔勝三が尾道市御調町出身であることを記念して作られた施設です。
[詳しくは
http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page9rx03_a.html
http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page9r04.htm
をご覧になってください。]
小高い山のなだらかな傾斜に造られており、至る所に円鍔作品があります。
寒いかも知れないと着込んでいったのですが、みんな暑いと言うくらいの上天気でした。
お借りしていたデジカメで撮りました。円鍔の作品を撮りたかったのですが、何せ人任せなものですから、撮れませんでした。でも車椅子を押してくれたスタッフも気は遣ってくれました。良い色に撮れています。
やっぱり最新のデジカメは良いですね。私のデジカメが何だかすごく古い物に思えてなりません。でもガマンしなければ。
元の画像で載せればいいのですが、Webなので縮小して載っけます。ちょっとでも秋の感じを味わってもらえれば嬉しいです。(この度は敢えて添え書きしていません)
散 歩
今日から11月、今年残りもあと二ヶ月になってしまいました。一年が経つのがすごく早いです。
今日は朝から上天気。スカッとした雲一つ無い秋晴れ、こんな日に家にいるなんて、もったいないですよね。散歩に出かけることにしました。
妻にWaterDrinkをペットボトルに入れてもらって、カメラを首にかけ、セニアカーに乗り、揚々として出かけました。
行き先は迷ったのですが、妻が昼過ぎには出かけなくてはならないので、それまでには私も帰らなければならないということもあり、近い方の「POM」周辺と芦田川河岸にしました。
出かけるときは「ちょっと寒いかな。」と防寒スポーツウェアを着て出たのですが、何陽の当たるところはポカポカ。
途中、街路樹の根元に咲いている花や、他所のお宅の玄関先や庭先に咲いている花も写真に撮りながら行きました。
散歩はこれが出来るから楽しいのです。自分でセニアカーを自在に操って、取りたい場所・角度に移動して写真撮れるのですから。とは言っても車から降りてとか、低い位置で撮ることなど、出来ないこともありますけどね。
![]() 義母が腰を痛めて いながらも育てた菊 です。 |
![]() 街路樹の根元に 咲いていたマツバ ギクです。 誰が植えたのかな。 |
![]() 道中の庭に咲い ていたバラです。 秋の日差しに照ら され、すごく映えて いました。 |
![]() 農協の花壇に咲いていたマツバギクとガザニアです。低い角度からなので、推量で撮りました。 |
「POM」の公園の花水木(だと思います)は、赤くなっていました。先週御調の円鍔記念公園の桜の葉は紅葉していましたが、此処のは赤くもならないで散っていました。せいぜい黄色になっている程度でした。ちょっと期待はずれだったかな。
で、河岸に下りてみました。セニアカーだから下りることが出来るのです。散歩コースが作ってあるので、舗装もされていますから。
やはりまだちょっと時期が早かったのでしょう。思うほど秋を感じませんでした。
とはいっても、川に降り注ぐ陽は秋の陽。目に柔らかく感じました。
ススキがいっぱいあるだろうと思っていたのに、意外や意外川岸に数カ所ある程度でした。その代わりに、エノコログサを撮りました。
大待宵草が秋の名残をとどめるように数本咲いていましたが、残念花はしぼんでいて撮れませんでした。朝早いと撮れたのでしょうが。
時計を見ると、もう妻の出かける時間が迫っていました。もう少しのんびりと秋の陽を浴びたかったのですが、帰路に着きました。
11月3日
またまた秋を求めて
今日も秋を求めての散歩をしました。
今日は北の方角にある「府中公園」に行きました。
この前より数日日が経っているからか、北だからか、ちょっと高いところからか、木々の紅葉が進んでいました。桜もほどよく色変わりしていました。
この度はデジカメのピクセルを大きくして撮りました。初めから小さいピクセルで撮ったのに比べると、大きいピクセルで撮っておいた画像を小さくしたときほうが劣化が少ないように思います。
この病気で私は右下がりになったために、どうも撮った画像も右下がりになっています。それとシャッターを押すときの加減でしょうか、上の部分が良く切れてしまいます。注意しているつもりなのですが。
見たくなくても見せます。気に入った画像はクリックして見てください。それでも50バイト以下にしていますので、当然元画像のようにはいきません。
元画像をご覧になりたい方は、下記のURLのどちらからかご覧になってください。ちょっと枚数が違います。
http://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=AE38EFBE-DAE6-49C6-8BD4-C625D5362A57
http://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=48A7446E-C56C-4944-87A1-AF892D78A0E0
11月13日
「秋を求めて」第三弾
今日は日曜日だし、何処へも行くところもないし朝寝を決め込んでいたら、妻が部屋にやってきて、「お父さん御調八幡宮に一緒に行きませんかとお誘いがあったのだけどどうする?」
ヘルパーさんからの電話でした。外を見ると良い天気。「私もどうですか?って誘われたのだけど。」と妻。ここのところ妻は精神的にも疲れているようなので、「一緒に連れて行ってもらおうよ。気分転換になって良いのじゃあないの。」
御調八幡宮については、
http://www.tako.ne.jp/~m-kankou/meisyo/mitugihachiman/
をご覧になってください。また
http://plaza14.mbn.or.jp/~tonari/koyo_mitsugi.html/
は私と同じように紅葉の紹介です。
ヘルパーさん夫婦と私たち夫婦で出かけました。車の運転はもちろんヘルパーさんのご主人です。いつも思うことですが、本当に女性って良く喋りますね。行き帰り、しゃべり通しだもの。
途中お昼のお弁当を仕入れて、行きました。目的地までは40分足らずです。具合の悪いことにあんなに天気が良かったのに、曇ってきました。八幡宮に着いたときは、すっかり曇って寒い天気になってしまいました。
父が生きている時(今から20年近く前になるのかな)しだれ桜を見に来たことがありますが、その時より周囲がすっかり変わっていました。道も舗装してなかったし、きちんとした駐車場もなかったし、もちろん「やはた川自然公園」なんてありませんでした。
境内での移動はほとんどヘルパーさんがしてくださいました。私のデジカメを持って行っていたのですが、ヘルパーさんのご主人のデジカメ(ルミックス)もお借りして撮りまくりました。天気の良い日だったら、どんなにか素晴らしい写真が撮れていただろうなと、残念至極です。
今日は境内で特別催し物もあり、大勢の人手でした。お茶席あり、神楽殿には特設舞台が設置してあって、「森のコンサート」なるものが行われていました。また地域の小学校児童の文化財的な発表もあったようです。
トイレに行きたくなり、駐車場まで帰る間にも、格好の対象物を見つけてはシャッターを切るのもですから、「本当にトイレだいじょうぶ?お漏らししないの?」なんて言われる始末。
お弁当は「やはた川自然公園」の一角に陣取って、ヘルパーさんの作ったおにぎりやフライドチキン、それとコンビニで買ったお弁当を広げて食べました。ちょっと寒かったですけれどもね。
閑とは言えお客のある今日の旅館、遅く帰るわけにはいきません。疲れのでない程度で八幡宮とお別れです。
本当に夫婦共々ヘルパーさんご夫婦にお世話になりっぱなしでした。私たちがなかなか出来ないことを、わざわざ誘ってまでくださるその気持ちに、夫婦共々感謝しています。
ここへの写真は10枚だけ載せていますが、下記のサーバーアドレスにはしっかりと載せていますので、ぜひご覧になってください。転送の都合上3ページになっています。
ttp://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=9DBBF9FB-855A-4E15-ACEF-1ED6533C04F9
http://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=241C2106-436A-4DE7-9BB2-F8BD827AA794
http://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=CA521899-538F-47C2-B229-F36ADBEF5B54
私のHPに載せると、すごく容量を食うので、せっかく無料のアルバムを載っけるサーバを持っているので使わせてもらいました。
ピーポ〜ピーポ〜
全く何の異常もなくいつもの調子でデイケアに行ったのに、帰った先は行きつけの内科病院でした。
何処も変わったこともなく、テーブルの花の撮影・入浴・昼食を済ませ、気持ちよく昼寝をし、良い気分で目覚めたのですが、異変はその後起こりました。
スタッフに手伝ってもらいながらベッドから起き隅に座った状態になったとき、突然目眩に襲われました。それでも車いすに移乗したのですが、続いて吐きけをもよおしてきました。
「どうしたの、木下さん、大丈夫?」いつもになくコルセットがきついように感じたので、コルセットを外してもらいました。それでも吐きけは収まらない。
「しばらくベッドに横になっておこうか?」と言われベッドに寝たのだが、くるくるとした目眩ではないのだが、目を開けているとフラフラするし、ガバッとは来ない吐きけがするのです。
ちょっとしたことではないと感じられたのか、上司に連絡。施設内の医師と看護師長も駆けつけ、ちょっとした事に発展です。
どうも気弱になると泣けてくるようになり、医師の診察を受けているときから胸がつかえて声を出して泣いてしまいました。「大勢の人を巻き込んで、迷惑を掛けてしまって。」と思うとまた泣けてくるのでした。
「木下さん、どうする?かかりつけの病院へ行こうか?」と言われ、不安な気持ちだった私は「そうします。」
と言うことで家の連絡を取ってもらい、施設の人に直接病院へ連れて行ってもらうことになりました。道中も車の中でみんなの気遣いを思っては涙するものですから運転しているスタッフにも気を遣わせてしまいました。
丁度この日は旅館が結構忙しく、施設から家に連絡があったとき妻は買い出しの途中だったようで、受付が終わって診察室へ入った頃妻もやってきました。
スタッフは妻に経緯を話したところで妻とバトンタッチ。
院長は丁度往診中で留守。他の医師に診てもらう。良いことに私のことをよく知っている看護師さんと師長さんがいてくださったので、大いに助かりました。
採血とCT撮影、それに心電図測定。脳梗塞だとCTではすぐには分からないが、脳出血は分かるとのこと。
その間も泣いて、看護師さんになだめてもらう始末。
そのうち目眩をもよおすような気分は落ち着いてきました。すぐ分かる採血の結果も然したる事はないようですし、CTを見ても異常は見られないとのことでした。もちろん心電図も異常なし。
結果が出た頃院長が帰ってこられ、対応医師から話を聞かれた後私を呼ばれ、「どうします?不安なら上へ上がって泊まっていきますか?」と言われましたが、「家に帰りたいです。」と言って帰宅しました。
吐きけがなかなか収まらず、夕方ついに喉に指を突っ込んでみるが、何も出ず。しかしその後吐きけが収まってきました。
夕食は胃に負担のかからないよう素うどんを食べました。
年賀状も未だだし、クリスマスカードが出せなくなって困ったのですが、致し方ありません。この日はおとなしく寝ました。
年賀状作りで少し疲れて、体調不安定になったのでしょう。気分がすっきりしてきたのは、次の日のお昼過ぎでした。
どうも今年の暮れはついていないようです。このことからおよそ一週間後の27日になんでもないような動作で腰の筋を痛め、今日注射を打ってもらいました。二度あることは三度あると云われています。気をつけないと。