1月分 | 2月分 | 3月分 |
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4月分 | 5月分 | 6月分 |
7月分 | 12月分 |
一年の計は元旦にあり
「一年の計は元旦にあり」と言われているので、私なりに一年の計を立てました。計と言うより願いですね。
大げさなことはありません。一番は、私が大儀なくこの一年を乗り切ることです。
おかげでここ3年ほどはたいした病気にも見舞われずに、病気で入院することもなく過ごせているので、このままでいてほしいと願っています。
そして家内安全でしょうか。私に手がかかるのにこれ以上妻の手を煩わすことのないよう願っています。小言ばかり言う母ですが、やっぱり元気でいてほしいです。孫たちも病気や大きなけがのないよう祈っています。
やってみたいことはありますが、私が動くということは人の手を煩わすということなので、そのときチャンスがあればさせてもらいます。
大きな計画もありますが、実現できるかどうかわからないので、書きません。
1月2日
教え子と語る
【つれづれに】に何度も登場する教え子が、お正月で帰ってきていて、早速訪ねてきてくれました。
この日は母を連れて墓参りをしていたのですが、そこへ留守番をしていた息子から電話があり、教え子が来たとのこと。ちょうど墓参りが終わって、帰る準備の時でした。本当は墓参りの後「TSUTAYA」による予定だったのですが、TSUTAYAより教え子に会う方が優先。急いで帰りました。
長いこと小中学校臨時採用教員をしていて、東京周辺の市採用の正式教員となって二年目。それで本年度は6年の担任をしています。
学校の実態を聞けば驚くことばかりです。
校区は高級マンションが多く、母親は専業主婦がほとんどだとのことです。
いわゆる我が子だけ、我が子さえと言う母親が多く、学校経営・もちろん学級経営にも支障を来すことが多いそうです。
「そんなことは親の責任でしょ。」というようなことでも学校に何とかしろと言ってくるそうです。
6年生ですから自分なりの考えを持っていていいはずなのに、親の言いなりというか指示待ち人間になっている。自分で解決しようとしない。いやなことや反対されたり注意されると、すぐ切れる子の多いこと。
まあこのあたりは今の府中市の子どもでも言えることです。
何より驚くのは、私立中学校に進学する子がクラスの半数以上ということです。
学校で塾の勉強するのは当たり前。考えられないことです。
親や先生の前ではいい子ぶって、陰で弱いものいじめをしたり、させたりしている。なんか「金八先生」のドラマを思い出しました。
本当に日本の教育、これでいいのでしょうか?現役の先生方どう思っているのでしょうか。我が身を守ることで精一杯ですか?時間から時間までの先生。遅くまで学校に残って仕事をしていると言われるけど、そのうち子どもに直接還元できる仕事ってどれだけありますか?会議会議に明け暮れ、その資料作りに追われ、子どもの後ろ姿を見る目を失ってきているのではありませんか。
私事で申し訳ありませんが、担任していたときは昼食後の大休憩は、特別なことがない限り運動場へ出て子どもと一緒に汗をかいて遊んでいました。少しでも多く子どもと一緒に居れる時間を取るようにしました。
でも子どもが毎日書いてくる日記には目を通していました。一言コメントを書くことを心がけ、書けないときは子どもに「添え書き書いていないけど、ちゃんと呼んでいるからね。」と言って返していました。
時間があれば放課後子どもの下校時間まで一緒に遊ぶこともありました。
心臓病でペースメーカーを埋め込んでからも、子どもと一緒に体を動かせていました(もちろん医者の許可された範囲内ですが)。少年サッカークラブの指導もスイミングクラブの指導もしてきました。
どうも最近の教育活動は、机上のことが多いように思います。生きている・しかもいろいろなことに興味を持ち、多感な小学生です。6年間はその子の一生にとって一番大事な時ではないでしょうか。その大事な時を預かって教育している先生方、本当にご自分の立場を認識しておられるのでしょうか。
もっと20坪を大事にしてください。学校の先生は、教科を教えるだけではありません。教科だけを教えるのなら、学校教師にならないでほしいもの。サラリーマン先生にはなってほしくありません。
それから保護者や地域のことをもっと知ってほしい。気になる子がいれば、親と語り合うのは当然。そのためには家庭に出向くのもこれまた当たり前。20坪・学校の中だけの子どもを見ていては、本当の子どもの姿はなかなか見えないものです。
団体生活の大事さ・個と集団の関わり・規律、それを子どもに教えてやってください。
何より最近大事にされていないのが「義務」です。権利・自由は「義務」の上に成り立っているのだと、私は解釈しています。「義務」の行使なくして権利も自由もないと思っています。
14年間担任をしてそのうち7年は6年生担任をしました。転勤してすぐ6年生の担任が二回、連続6年生担任が二回、5年生から持ち上がりは一度だけでした。担任していないのは3年生だけです。
一年生の担任を就職二年目にしました。その時の濁り毛のない澄んだ瞳を見た時、「ああ、教師になれてよかった。私は小学校の先生をし続けよう。」と自分に誓いました。
笑われるかもしれませんが、お金がなければ生活はしていかれませんから、お金をもらって働いている、労働者には違いありませんが、教師は生きて日々成長している子どもを相手にした仕事です。明日の日本・いや今は明日の地球を支えていくその子どもの教育に携わっているのだという自負を忘れないでください。
退職したら、「教師の時に言っていたことを忘れている先生がいる。」とよく言われますが、そうなりたくありません。
教え子には、訪ねてきてくれる度にこのことは話をしていますので、私の言っていることを守ろうと、さぞ困ることが多いのだと思います。でも原点だけは忘れないでほしいです。
1月4日
施設に到着。舞台が作ってあるので今日は特別席が作ってあり、私は後ろの方に。しかもスピーカーの近くに。
会が始まって写真を撮ろうとするが、後ろの席でどうも撮りづらい。その上、どういう訳かカメラまでおかしくなり、ピントがうまく合わない・ストロボのセッティングがうまくいかない。
諦めかけていたらスタッフの一人が「木下さん、スピーカーの近くでは耳がいけないでしょう。それに写真を撮るにもここじゃあ撮れませんよね。」と気づいてくれて前の席に移動してくれました。ありがたや。
やっぱりお賽銭ケチったのが悪かったかな。どうもうまい具合に写真が撮れない。その上バッテリーの充電ができていなかった。していたつもりが古いバッテリーに充電していて、新しいバッテリーに充電できていなかったのです。まったくついていないときはいつまでもついていないのもですね。
スタッフが私が獅子にかじられるところを撮ってくれたのですが、再生してみるとこれまた後ろ向きで駄目。
とは言いながらも出し物は楽しませてもらいました。今年は出し物は全てスタッフによるものでした。詩吟・手品・踊りなど。忙しい中大変だったでしょう。
「馬子にも衣装」と言えばちょっと語弊があるかもしれませんが、男女とも着物姿はいいものですね。でも女性帰宅時間の頃となると足を引きずっている娘もいましたよ。
どの写真も加工修正して、何とか見られるようにしてみました。雰囲気ないと味わってください。
昼食は「お寿司バイキング」。本職が握ってくれたお寿司の食べ放題。ネタも結構なもので、ウニ・トリガイ・マグロ・イカ・たこ・エビ・穴子 などでした。 実は昨日もお寿司を食べていたので、少々食傷気味でして、六個ほどしか食べられませんでした。みんなうれしそうに食べていましたよ。
午後は入浴タイムです。その時間を利用して、福笑いやらカルタなどを楽しむようになっていました。でも私は、ベッドでいい子して寝ていました。ちょうど目覚めたときに「木下さん、お風呂に入りましょう。」とお迎えが。
ゆったりとお風呂に入らせてもらい、入浴後のコーヒーを飲んでいると早お帰りの時間となりました。利用者の方に「写真できたら焼き増ししてくださいね。」と言われたものの、「今日は全然良いのが撮れなかったのですよ。ごめんなさい。」と言わなきゃなりませんでした。
来年も元気にデイケアでの新年会を迎えたいものです。
1月16日
やっと復旧しました
去年からパソコンの作動が鈍く、いろいろとファイルクリーナーやデフラグをやってみてもなかなか改善できないでいました。
今のソフトは要領を多く必要とするものが増え、それだけPCに負担をかけてしまいます。特に私の使っているJUSTSYSTEM製品はそうです。30.40GBではOSとそれで快適なPCではなくなってしまいます。
1月3日に妻に実家に言った帰りにPC専門店に寄り大容量のHDDを買ってもらいました。通販で買おうと思っていたのですが、「ちょうど良い。機嫌も良いから今日は奥さんにねだれるな。」と思ったのですが、うまくいきました。
新年早々なので、年賀の整理もあり、メールも見なければなりません。それで6日になってやっとHDDの付け替え作業に入りました。
まず、メールのバックアップを取り、それから各ソフトのデータをバックアップ。次にその他のデータのバックアップ。マイドキュメントなどがそうだ。
HDDを入れ替えるのだから当然CDかDVDにバックアップを取らないといけません。これらの作業に結構な日にちを要しました。
システムディスクのバックアップも取ったのですが、息子に「HDDを入れ替えるのなら、システムもインストールし直した方がHDDもすっきりして良いのじゃないの。」との助言を受けて、結局システムディスクはフォーマットすることとなりました。
自分でできないのがHDDをセッティングすることです。ボックスから取り外すこともできません。ちょっとやってやろうとしましたが、ソケットから外すことができません。息子の手助けを頼るしかありません。電球を取り替えるのと訳が違います。セッティングしたらちゃんと作動するかどうか確かめなくてはなりません。息子はそこまで確認をしてくれました。
いよいよシステムディスクにOSのインストールです。おっとその前に外付けハードウエアーを取り外さなければ、インストールが遅くなるばかりか、汎用ドライバーがインストールされるので、それの取り外しです。グラフィックボード・サウンドボード・LANボード・USBボードなどです。それにプリンターやターミナルも外しておかなくっては。
そのお陰か、OSのインストールはスムーズにServicePack2も難なくインストールしてくれました。
これからが大変。ハードウエアーをひとつずつスロットにはめて、ドライバーのインストールです。ドライバーの最新版がないかWebまで行って確認し、新しいのがあればダウンロードいてアップデートしたりです。
前データディスク用に使っていた80GBのHDDをシステムディスクに、新しく買った250GBのHDDをデータ用にしました。さすが250GBともなるとフォーマットするのにも時間がかかります。
やっとバックアップしていたデータをHDDに戻します。もちろん圧縮してありますから元に戻さなくてはなりません。フォルダを考えながら作って戻していきます。
もちろん各種ソフトもセットアップのし直しです。またまたやり直さなければならなくなったら大変ですから、私としては非常に慎重にしました。
で、やっと今日本格的に作動させました。何とかうまくいってよかったです。それでもバックアップ取っておけばよかったと思うファイルもありましたが、それこそ後の祭りです。まあ作動には影響ないものだから良しとするか。
1月18日
今日はデイケアで、手打ちうどん実演がありました。
入浴が始まった頃から実演が始まりました。どなたがされたのかわからないのですが、どっかで見たような顔でしたけど。
昨年のクリスマス前に、人形劇などに使うような台付き額のようなものを業者が持ってきて組み立てているのをたまたま見かけ、「クリスマス会に、何かするために作ったのかな。」と思っていたら、新年会の時のにぎり寿司コーナーになっていた。そして今日はうどんの暖簾が掛かっていました。
蕎麦打ちは見たことがありますが、うどん打ちは初めてです。
時間の関係でしょうが、うどん粉はほとんど練り上げてあるみたいで、伸ばすところを見せてもらいましたが、私が思っていたより時間が短かったように思います。見るとするのとでは違うのでしょうが、それでも結構力がいるように見えました。
打ち上がったら次は麺に切ります。麺切り台が用意され、手打ちしたうどん粉を乗せ、例の大きな包丁で調子よく切っていきます。
どうも麺の幅は調節するようになっていて、包丁を降ろして上げると決まった幅だけ包丁が動くようになっているようでした。
「トントン、サクサク」てな感じでまたたく間に切れていきます。
切れ上がった麺はほぐしながらざるへ入れます。
実はここまで見た時に私の入浴タイムとなりました。風呂から上がってみると、もうゆで釜も出て、だし釜も用意され昼食寸前でした。
さあ、いよいよ昼食。言うまでもなく今日のメニューはうどん定食。
打って間なしの麺の茹で上がりだちがいただけるのです。名人が茹でてくれ、お手伝いさんがだしを掛け、それをスタッフが利用者の食卓まで運んでくれます。
具のトッピングは自由です。牛肉・エビ天・わかめ・山菜・かまぼこ・天ぷら揚げ・ネギ などです。
うどんは私も好物です。具は、牛肉・エビ・わかめ・山菜を入れました。
手打ち独特、麺の厚みがまちまち。結構おいしかったですよ。好きな人はお代わりをしたり、具をいっぱい入れておいしそうに食べておられました。七味があったら良かったのだけどな。
利用者はいろいろ企画してもらって良いばかりだけど、企画する方は大変だろうな。
5000カウント達成
ついに私のホームページ訪問者が5000カウントを数えることが出来ました。これはTOPページからの訪問者です。とは言え、私自身がカウントしたのも含まれます。
TOPページにも書いていますが、ホームページを開いたのは、2000年4月20日です。
私のインターネットの正式接続はBIGLOBEから始まりました。元々はPC−VANからの始まりです。ナビを使って接続していました。その経緯上BIGLOBEになったわけです。
間もなくして、Lotusを購入したら、LotuswordでHPが作れるということで旅館のHPを作りました。これが私のHP作りの始まりです。
そのうちそのころはBIGLOBEには制限事項が多かったので97年9月niftyに乗り換えました。
息子から「旅館は商用になるから駄目だよ。」と言われ、旅館のHPは息子に任せることにして、「それなら自分のHPを作ってやろうじゃないか。」と一念発起したのです。その時は何も知らないでただwebに乗っけただけでした。
200年4月20日というのは、ホームページビルダーで作って公開した日のことです。その頃はカウンターなんて自分には関係ないと思っていましたから付けてはいませんでした。
障害者在宅ワーク支援研修を受講する一年ほど前にやっとカウンターを取り付けました。
2003年月から県の障害者在宅ワーク支援研修でHP作りを勉強してから、niftyでは自作cgiが使えなかったのでサーバーを現在のwakwakに替え、metatagも記入してからカウントを始めてからの訪問者数が5000カウントを超えたと言うことです。
だから私がHPを開設して以来ということではありません。
しかしこんな一個人が作ったHPに訪問してくださるなんて、本当にうれしいことです。
最近は私のような脳梗塞を患っておられる方も大勢HPを乗っけておられます。私が乗っけた頃の何倍にもなっています。障害者のHPなんて少なかったのですから。
でもでもHP作成上まだ知らないこと・分からないことがいっぱいあります。
それと私の一番悪いところだと思いますが、一方通行になっていることだと思います。
もっと他の人との交流をしなければいけないと思っています。せっかく掲示板に訪問いただいた人でもすぐ切れてしまうのは、私が受けの態勢だからと思っています。反省しています。
とは言いながらこれまで支えてくださった方々にお礼を言います。今後ともどうかよろしくお願いします。
2月17日
メニエール
14日、朝起きたときから、何となくからだがシャンとせず、おなかの具合も今ひとつ。昨夜腹に残るものを食べていなかったから、お腹が空いているのかな、ぐらいに思って一応普通に朝食を摂ったものの、どうも体がすっきりしません。
朝食後もまたベッドイン。その日は午後歯医者に行くことのなっていたので、お昼も食べないといけないと思って起きてベッドに座るととたんに気分が悪くなりめまいがするではありませんか。「こりゃあいけんわ。」でベッドに倒れ込む始末です。何度か起きようとしたのですが、そのたびにめまいと吐き気をもようすだけです。
何とか妻に連絡を取って、歯医者へは連絡を取ってもらいました。横になっているとさほどどうと言うことはないのですが、起きると駄目です。とうとう症状を訴え医者の往診を頼みました。
まだ午後の診察中だったにもかかわらず先生が来てくださいました。先生も私が心臓病と脳梗塞患者だと言うことは知っておられますから、心配くださったのだと思います。前もこれに似たようなことがあったので先生は見当を付けておられたのでしょう。
来られるなり目の動きと瞳孔を見られ、すぐ点滴をされました。それから飲み薬をおいて帰られました。
結局その日はベッドから起きることが出来ず、寝たまま。首を右に動かすのはなんでもないのに、左に動かすとめまいとは聞けに襲われるのです。もちろん起きることは出来ません。
それでも夕食をしなくてはいけないので、少しずつ時間を掛けてベッドを起こしてから何とか食べることが出来ました。
そんな症状が夜中の2時過ぎまで続いたでしょうか。
15日目覚め妻にゆっくりとベッドに座らせてもらいましたが、何とかめまいが止まったような感じです。デイケアに行く日でしたが、利用不可の電話をしてもらい、私は医者に行くことにしました。
運の悪いことに旅館が忙しい日で妻が病院へは付き添っていくことが出来ないので、息子に連れて行ってもらいました。いろいろあるけど息子よくしてくれます。
病院に行って診察を受け、先生に「メニエールですかね?」と聞くと「そうみたいですよ。もう一日点滴をしておきますか?」と言われ、「痛いから・・」と私が言うと、「なに点滴の針が痛いのは一時でしょうが。」と笑われ、採血のあと点滴室へ。
メニエールなんて女性の病気だと思っていたのですが、大間違いですね。考えてみるとここ数日法事の案内状を作ったり、妻の睡眠不足の助けにと徹夜まがいのことをしたのがいけなかったのだと思います。
いつもは上手に注射してくれる看護師さん、今日はうまくいかず。そしてまた点滴の針もうまくいかず。やっと入ったと思えば私が腕を動かしたからか、液が漏れてまた打ち直し。着いていないときは着いていないんだなあと感じました。
車椅子だから点滴室のベッドも端を利用したのはいいのですが、端は通路になっていて寒くて仕方ありませんでした。でもいつも私をからかう看護師さんが、毛布を二枚掛けてその上に私のオーバーを被せてくださったので助かりました。
結局からだがしっかりしてきたのは17日からでした。妻に怒られました。「自分の体をもっと大切にしなさい。」って。
ヘルパーさんの交代
入浴サービスのヘルパーさんが急病で代わりの方の世話になることになりました。 私は社会福祉協議会のお世話になっています。現役の時から福祉教育でお世話になっていましたし、頼みやすかったと言うこともあります。 病気になられたヘルパーさんは、私が2001年入浴サービスを受けるようになって3番目か4番目の人でした。 ちょうどその年は体調の優れない年で、入退院の繰り返しをしていました。だから退院して入浴サービスを受けるとヘルパーさんが代わっている、と言う具合でした。 しかしその後はいい具合に退院しても同じヘルパーさんのお世話になり、今日まで来ていたのです。もちろんヘルパーさんが病気の時は代わりに人のお世話にはなりましたけど。この度もそうなると思っているのですが。
何せ週二回、ついつい私の我が儘も出てきます。そして安心して任せきってしまっていました。
今回はヘルパーさんの調整がうまくいかなくて、曜日でヘルパーさんが代わるのです。正直言って利用者と家族はとまどいました。そりゃそうでしょう。私も家族も任せっきりでしたもの。今私が何をしたがっているか、何を望んでいるかがわかってもらえるくらいでしたから。家族もものの置き場所を知ってもらっていましたから、家族がいなくても安心しておれましたから。
月曜日に来てくださる方は、どこかでお見受けした方のように思えます。まだ聞くところまでいっていません。もう少し慣れたら聞いてみようと思っています。
金曜日に来てくださるヘルパーさんは、私が教頭で赴任した学校の保護者でした。また子どもさんがスポーツクラブに所属していたので、よく知っている人です。前も一度お世話になったことがあります。
おそらく今までのヘルパーさん病気が治られたらまたお世話になると思っていますが、それまでは二人のヘルパーさんのお世話になります。私も早く二人になれるようにしなくてはなりませんよね。
孫たちが来た
10日に娘が孫二人を連れて帰ってきました。今回はパパがどうしてもお仕事で付いて来られなくて、ママ一人が四歳と二歳になろうとする姉妹を列車で連れて帰ってきました。
近畿タンゴ鉄道からJR新幹線・そしてJR福塩線と乗り継いでですから大変だったろうと思います。
孫たちが着いたときはちょうど私はこれから入浴サービスを受けるときでした。でもちょっとだけ顔を見せることが出来ました。
生憎孫たちが来ている間中旅館が忙しく、ゆっくりとお相手できなかったのが残念です。
孫たちの夕食の時間帯は、旅館がもっとも忙しいとき。私まで孫に加わっての夕食なぞできません。二泊したのですが、夕食は一緒に出来ませんでした。それに子どもは朝が早い。朝私が食堂に出て時はもう孫たちは朝のお散歩に出かけているし。
それでも二日目のお昼は、息子に留守番をさせて、おばあちゃんも連れ、大型ショッピングセンターに行きました。
私の車にはベビー用シートがないので、娘と孫はタクシーで。私たちは妻の運転するクルマで行きました。
着いたらもうお昼時でしたので、先に食堂へ行って食事をしました。男の子二人、にぎやかでしたよ。こちらは落ち着いて食べられませんでしたが、孫たちの食べている様子を見ることが出来たのだから良いかな。
食後には、お決まり、チャイルドランドで動くおもちゃに乗りました。私はと言うとおトイレの時間、あの騒音も堪らないのですが。妻に一階の障害者用トイレに連れて行ってもらい、帰った時には、もう孫たちは眠くなったのでしょう、飽きて帰りたがっている時間になっていました。
わずか2時間ほどでしたが、一緒に過ごせてうれしかったです。これに婿さんも来ているともっと良かったのですが。
二泊三日なんてすぐ経ってしまいます。いつも帰るときは「もうちょっと居ればいいのに。」と思うのですが。外孫だからこれで良いのかもと、勝手に納得しています。次男が20日に満二歳の誕生日を迎えるのでみんなで祝いをしてやりたかったのですが、旅館が忙しくて出来ず残念でした。
孫たちが帰る頃になってなついてくれ、写真も撮らせてくれました。でも並んで一緒の写真は今回は撮れませんでした。成長してきているから仕方ないのかな。いつまでも赤ん坊ではないものな。
帰りはやっぱり寂しい。妻たちは玄関の外まで見送りだけれど、私は家の中でお別れだもの。その上、妻は支線に乗って新幹線福山駅まで見送りに行ったのだもの。
今度はいつ来てくれるのだろう。
春真っ只中の散歩
今年もまた4月からセニアカーを借りました。せっかく借りたのに、なんと今年の春は雨の多いこと。「明日は乗ってやろう。」と思っていると雨。やっと今日乗ることが出来ました。
でも時間がないので、近くに出かけることにしました(妻が会合に出かけるので、それまでには帰っていないといけないため)。
近くで桜が咲いているところといえば、セニアカーで10分も掛からないところ、芦田川河岸のPOM周辺しか有りません。いつも通院している外科病院のある三角州です。
今日は天気で良く晴れているのに、黄砂のせいですっきりしていません。それでも春の風景を楽しみましたよ。
桜も7分咲き、ちょうど見頃かな。私が桜の写真を撮っていると、病院から「木下さ〜ん。」と物療室のスタッフが大声で声を掛けてくれました。
桜だけでなく、春の息吹が感じられる河岸の散歩道も巡りました。タンポポが一輪咲いていました。春温む水・それに転げ生えで大きくなった柳や、多くの草木が若芽を出して、なんだか若返ったような気分を味わうことが出来ました。
![]() ちょうど見頃と なっていました。 ドームは「POM こどもの国」です。 |
![]() 私が倒れた頃は まだ幼木だった 桜の木です。 |
![]() |
![]() 日当たりの良い ところは、もう 満開状態。 |
![]() 私の目にとまった タンポポの花は この一輪だけ でした。 |
![]() 一両編成で走る JR福塩線の 気動車。 のんびりとした春の風景です。 |
![]() 川の水も温み、 木々も若葉が 映えます。 ああ、春だ! |
![]() 左の建物が私の 通っている整形 外科病院。 |
自然ってやっぱりいいなあ!
朝目覚めたとき天気がとても良さそうでした。その時ふっと『こんな日は〇〇さんから「先生どうしょうるん?山に行かん?」と、入浴ヘルパーさんから電話があるのにな。』なんて思いました。今そのヘルパーさん病気療養されているのですが、何と本当にそのヘルパーさんから元気そうな声で「もしもし、カメさん・ウサギさん」と電話が。本当に私が思った直後でした。テレパシーって嘘ではないのですね。
「先生どうしょうるん?山に行かん?」今日は一人でセニアカーに乗ってどこかへ行こうと思っていましたから即「OK!」
ご夫婦で迎えに来てくださり、私と三人で出かけました。妻はやらなければならないことがあり、参加できませんでした。
行き先は、この辺りの最高峰、蛇円山 です。ここは頂上まで車で行けるので結構登山者(?)が多いのです。私は30年近く前遠足で子ども連れて行って以来です。昔は遠足と言えば本当に遠くまで歩いて行ったものです。片道2時間半ほど歩くのは当たり前でしたから。それも小学4年生ですからね。車と歩行者の登山ルートは違いますけど。
やはり標高700mを越すとまだまだ山桜がしがみついています。それにツツジ、そして藤の花。新緑の中をクルマでしたが通るというのも気持ちが良いものです。
頂上に着き、クルマから降りたとたん、胸一杯すがすがしい空気を吸い込みました。今日は黄砂の影響で少し霞んでいたのが残念でした。
この山の山頂からハンググライダーで飛ぶとのことで、柵がありません。のぞき込むとヒヤッとするような絶景でもあります。
霞のない時は瀬戸内海も見渡せるのですが、今日は残念。
実は笑い事ではないのですが、他人だから笑い事が起きました。
先に来ていたえんを催していたグループのご婦人方が何やら騒ぎながら公衆トイレに行かれました。ちょうど私はヘルパーさんに車椅子を押してもらってトイレ近くに来ていたときです。
「いや〜どうしよう。落っこちちゃった!」と悲鳴が。どうやら携帯電話を壺に落としたみたいです。それからが大騒動。水洗トイレではないものですから落ちているのが見えるようです。旦那様方も『こりゃ一大事!』と宴会そっちのけでのてんわワンヤ。水分に使ったものだから、電話そのものは使えないでしょうが、メモリーは何とかなります。運(ウン)良く旦那様方が奮闘され取り出しに成功しました。良かった良かった。
そんな早々どうも一段落したところで私たちも下山へ。その下りでものすごく貴重な体験をしました。
何とTVで見る映像そのまま、ノスリ(鷹)が獲物の蛇をわしづかみ(タカづかみ)して私たちの車の前を飛びすぎたのです。そして道路の崖側の木に留まったのです。こんなの滅多とお目に掛かるものではない。「カメラ、カメラ!」と言ってクルマを止め、旦那さんがカメラを取り出し構えようとしたら、残念、ノスリは飛び立ってしまいました。本当に惜しい・残念なことをしました。TVでやっているのは、じっと時間を掛けて狙っているんだろうな。
クルマで下山したせいか、私の頭は気圧の変化に付いていけなかったようで、平地に戻った辺りから頭痛がしてきだしました。それも絞られるような痛さです。
折角昼食を一緒に摂っていても申し訳なくって。ヘルパーさんにも心配をおかけしてしまいました。
ですからまだ途中よるところもあったのですが、真っ直ぐ私の家まで帰ってしまいました。ろくにヘルパーさんご夫婦にお礼も言わないで、私はベッドイン。代わりの妻が言ってくれたようです。
お陰で寝て起きたときには、頭スッキリでした。
平生出かけることのできない私に声を掛けてくださり、本当に感謝しています。ありがとうございました。
和菓子作り
デイケアで「和菓子作り」の実演がありました。実演だけでなく、利用者も和菓子作りが体験できるのです。
私は手がうまく動かないので、もっぱらカメラマンをしました。
作ったのは、「栗かのこ」「乙女菊(ねりきり)」「金箔くず玉」です。
もちろん最初の材料作りからではありません。いわゆるパーツの組み立てです。
最初は「栗かのこ」作りです。あんはもう職人によって丸められていました。
そのあんに栗を三角形の格好に貼り付け、そのあと葛のタレを付け接着剤にします。それが固まれば出来上がり。これが一番簡単そうでした。
次に「金箔くず玉」作りです。
あんとあんの上に被せる葛で出来ている生地は作ってあります。
あんの上に金箔を2.3枚乗せます。金箔は小瓶に入れてありました。元々小瓶に入れて売られているように見えました。一切れでも金には違いないので、瓶から出すのは職人さんがやっておられました。
その上に葛の生地を被せます。うまく広げて被せるのが難しそうでした。
三つ目は「乙女菊(ねりきり)」を作ります。
これもあらかじめあんとあんを包む生地は作ってあります。
まずあんを生地で包みます。見ていてこの時のあん玉の潰し具合によって形の良いのが出来たり出来なかったりするようです。
包み終わったら、生地に模様を描きます。
残念ながらここで私は入浴タイム。どうやって模様を描かれたのかが分かりません。見本を作っておられるとき、竹のへらを使っておられるように見えたのですが。今度19日にまたありますので、出来たら見ておきましょう。
もちろん今日の3時のおやつは作った和菓子です。自分で作った人は自分のを、作られなかった人は職人の作ったのをいただきました。
ちなみに私は、あんが苦手で食べることが出来ませんでした。
どこの施設もいろいろと利用者が飽きないように興味をそそることを企画しているようです。今度私のところで開設する施設もいろいろな企画を考えないと。
新事業
実はこの度新規事業を興すことになりました。老人専用アパートを建てます。正式名は、高齢者賃貸住宅。建物の名前は「ケアビレッジ だいきち」といいます。
二階が賃貸住宅、一階をデイサービスのある介護施設にします。
前から私の日記を読んでくださっている方はお気づきだったのではないかと思いますが、2004年の秋ぐらいから話は進んでいました。
父から譲り受けた土地があり、それを駐車場として貸しておりましたが、利用者の減少(商店街の衰退)があり、また老朽化した長屋も壊さなくてはならなくなり、土地の活用法はないものかと思案していました。世の経済状況も最低で、旅館のほうも最低の有様でしたし。
息子は息子で色々思っていたようで、パナホームに勤めている友人に、相談を持ち掛けたのが始まりです。
パナホームの人と話をして、前向きに考えていこうということになりました。何せ資本のないものですから右から左という具合にはいきません。あるのは土地だけですから。
それからが大変でした。資金の調達のためにしなければならないことが次から次へと出てき、それをクリアするのに時間とお金を必要としました。
それもクリアし、土地の実測という段になってまた問題が起きました。
隣接する土地の地主との合意が必要なのですが、なんと何十年も放っておかれた土地があり、またその土地はわずか数坪にもかかわらず27人もの共同所有者となっており、さらに現存している人はなしで、その末裔もわからない有様なのです。
ですからまたまた設計変更せざるを得なくなりました。
都会ではありませんから、昔の慣習が生きており、そこへ新しい決まりが入り、都会では考えられないことがあります。実際自分の土地でありながら、番地を跨いで建ててありました。元々は所有者が違っていたものと思われるのですが。まあ一坪数十万円という時代ではなかったからできたのでしょうが。
ご存知のように介護保険もこの4月から大変わりしました。土地のことでもたもたしている内のことです。介護保険が改定されるということは知っていましたが、具体的なことはぎりぎりまではっきりしていませんでしたし、「あーでもない、こうではどうだろうか?」でどんどん遅くなりました。
また行政のほうも財政難から介護施設を作ることに難色を示したこともあります。
残念なことに私は正攻法を好みましたから、表門から行政に掛け合ったこともマイナスだったのです。私だって伊達に校長になっていたのではありません。今の市議会議員の半数以上はよく知っている方たちですし、行政の主要な方々も知っている人が多くおられました。
でもそのような方を利用させてもらうことの嫌いな私。同じように申請しながら裏回しが上手なところは認可されていました。性格上仕方ないことです。
ごたごたしている間に息子はヘルパー二級の講習を受けました。
ということでやっとやっと5月8日地鎮祭を迎えることができました。結局敷地面積も、300uほどに縮小となりました。
私からは親戚・姉妹にも確定するまで言いませんでした。他人にはもちろんです。でも、駐車場の契約者や長屋の住人との解約をしたりしている中で、新事業を考えているからとは言っていましたが。
6月6日、折り込み求人広告紙に求人を載せました。開設に当たっては専門のコンサルタントと契約していますので、そちらで採用などのことはしてくれますが、結構電話が鳴っていましたので、介護職員のほうは何とかなりそうです。問題はケアマネジャーや看護師・社会福祉士などが集まるかです。
8日にはA4の広告を新聞に折り込みます。
もう走り出していますので、やるっきゃない。妻や息子に私は頼るしかないのですが、何とか成功させたいものです。いや成功しなかったら裸になってしまいますから。
デイケア リハビリ室の紹介
今日は、デイケアのリハビリ室のスタッフを紹介しましょう。
この4月から診療報酬の見直しと介護保険の改訂(あえて改正とは言いません)の影響をもろに食って、病院でのリハビリ訓練を受けることが出来なくなりました。「リハビリは自分でするものだ。」と言われますが、リハビリすれば元のようにもどる人は出来るかもしれませんが、私のように人の手を借りなければ出来ない者は一人でリハビリしろと言うのは無茶な話です。怠っていると筋肉の萎縮や硬直が早まることは分かり切っています。そのような人は介護保険を利用してデイケアに行きなさいと言うことだそうです。
国のやっていることは矛盾していると思われませんか。介護保険の利用者が多くなって財政が緊迫してきているからと言って、介護保険の見直しをしたと言っておきながら、片方では介護保険を利用しなさい、ですからね。
医療保険でのリハビリ訓練は、自己負担額が少ないし、時間なども自由に近いのですが、デイケアに行くとリハビリ訓練だけを受けるというわけにはいかず、自己負担額もすごく増えるし、時間も一日となります。
とは言え文句を言っていてもリハビリ訓練をしてもらえないので、デイケア通所を二日に増やしました。
施設の方もリハビリ訓練は元々あった訓練室に戻して、リハビリ訓練をするようにされました。私のように病院でリハビリ訓練を受けられなくなり、デイケアに来るようになった人が増えたこともあるのでしょう。
元々リハビリ室は4階にあったのですが、利用者の移動に時間と人手が掛かるということでリハビリする場所を1階に移動していました。
でも結局それでは運営が難しくなったのか、きちんとしたリハビリ室でなければならないことになったのか、結局4階に戻りました。
利用者の移動は、リハビリ室と連絡調整を取りながらデイケアスタッフが送り迎えをしておられます。
私の利用日のリハビリの最後は以前どおりこの私です。ですから一階のデイケア室への帰りはリハビリのスタッフがしてくださいます。
私のところでデイサービスをしますが、デイケアでないので正式なリハビリ訓練はできませんので、今の施設へ通わなければなりません。仕方ないですか。
7月 9日
童謡・唱歌に思う
私はこのホームページのTOPにはBGMとして童謡・唱歌を利用しています。
私が小学校に勤めていたと言うこともありますが、童謡・唱歌が好きなんですよね。
戦前に育った人と戦後の混乱期に育った私と、また高度成長期に育った人とは思いが違うだろうということはわかります。
時代背景によって歌われ親しまれる歌も違ってきます。戦前は帝国主義・軍国主義の色濃く出ているものも多くあります。戦後は歌われなくなった歌詞もあります。
最近は子どもの口から童謡や唱歌を聞くことはほとんどありません。小学校の音楽教科書にも各学年共ほんの数点載っている程度です。
どうして歌われなくなったのでしょう。時代遅れなのでしょうか?
私が現役の時にある教師が「時代にマッチしない歌詞にリズム、子どもが好むわけがない。何より言葉が難しすぎてあれじゃあ解らない。意味も解らないのに歌わすことはない。」と言ったことがあります。
果たしてそうなのでしょうか。前半の部分にはうなずけますが、後半の部分はこれが教師の言うことかなと思います。子どもは始めは意味がわからなくてもそのうち言葉を覚え、使うT.P.Oを知りながら、意味が分かっていくのではないですかね。赤ちゃんが言葉を知るのもそうではありませんか。
歌詞の意味を理解させ、情景を思い起こさせるようにするのが教師の努めではないでしょうか。時代にそぐわないからと言って、古きを捨て新しきものばかりを求めることが、果たして良きことなのでしょうか。こんな考えの教師が増えているから、情緒豊かな子どもが育たなくなっているのですよ。1+1だけを教えるのなら学校は要りません。塾で結構です。大人にゆとりがなくなって殺伐としているこの世の中だからこそ、教師が子どもの心にゆとりを持たせ、情緒豊かな人間にしてやらないといけないのではないでしょうか。でも先生にゆとりがない今、それも無理なのでしょうか。そんなことをしていては時代に乗り遅れ、この世の中(日本の国では)通用しない人間になるのでしょうか?そうだとしたら、日本人って何と了見の狭い人間なのですね。だから夢を持たない子が育ち、情操豊かな子どもが育たないのではないでしょうか。
ちょっと理屈を言ってしまいましたが、日本の四季の様子を歌ったもの、子どもの情景を歌ったもの、おとぎものや絵本を歌にしたもの、たくさんありますよね。
今の世の中じゃ考えるのもあほらしいことなのでしょうか?そんなことは昔むかしのことですか?
私が年寄りになった証拠なのですかね。
7月23日
2006 府中ドレミファフェスティバル
今年もわが市上げての夏祭「ドレミファフェスティバル」が、7月21〜23日にありました。
雨ばっかりが続いていたので、今年は流れるのではないかと思っていましたが、何とメインエベント当日(22日)は晴れ上がったではないですか。しかも酷暑となりました。府中市民は日常行いの良い人が多いのでしょう。
メインエベント前日の21日には市内小学校児童による音楽発表会がありました。各校一つの発表ですが、指導者・児童共に暑い中の練習大変です。(経験者語る)
当日23日は、開会行事の後の「府中たんすリレー」で幕開けです。わが町府中は婚礼タンスでは名産地です。特に桐タンスは有名です。でも現在のご時勢、婚礼タンスの要らない住宅事情から衰退の一途をたどっています。業界は復興に躍起で、新感覚を取り入れた家具作りに、府中タンスの将来に賭けています。
台座に府中タンスを乗っけてそれを運ぶリレーです。折り返し地点には関所が設けられています。タンスの引き出しが運んでいる途中に外れると減点になります。その他にもいろいろとペナルティーがあります。一組四人で二グループの合計タイムで争うのです。
競技時刻はお昼の最も暑い時間、午後3時半から。競技するほうも観戦するほうも大変です。会場は我が家から20mほどのところです。私はセニアカーで観戦に出かけました。うちわとお水を忘れないようにして、カメラを首にぶら下げてね。
しかし途中で観戦を止めて帰りました。どうしてかと言うと、私は進入禁止のロープのところにセニアカーを止め、写真を撮りながら観戦をしていたのに、ロープの中に入って私の前で写真を撮る人が出たからです。しかもどう見ても報道関係の者のようでした。報道関係者ならどんなことをしても良いのでしょうか。自分は前にいる役員に邪魔になるから移動してくれなんていっているのですよ。右から左へすいすい移動できるわけにはいかない私。セニアカーの回りも人に囲まれていますし。だから諦めて、周囲の人に迷惑をかけながらセニアカーを移動させて家に帰りました。
![]() 我が家は今年も「無料浴衣着付け」の会場となりました。 |
![]() 総合司会のアナウンサーも我が家で浴衣姿に |
それと商工会議所青年部のバザーの会場の一部に我が家の駐車場が使われました。来年も使われれば、介護施設やアパートの利用者には喜んでもらえるだろうな。
午後6時からいよいよドレミファフェスティバルのメインイベント−パレードの始まりです。友達夫婦が来てくれました。一緒に我が家の前での見物です。もちろん私は写真を撮りながら。そして友と一杯やりながらも忘れませんでしたよ。
今年のパレードは三部門からなっており、「パレード部門」「イルミネーション部門」「踊りカーニバル部門」です。
どういうわけか今年はカメラとストロボの設定が悪かったのでしょうか、思うような写真がわずかしか撮れませんでした。撮った枚数は200枚ほどだったのですが。
今年の特徴は、パレードにシャボン玉を飛ばすグループがいくつかあったことです。【エコロジー】と何か関係あるのですかね。
前述したように新しく今年からパレードに「イルミネーション部門」が設けられ、イルミネーションで飾った山車が登場しました。参加こそ少なかったですが、結構趣向を凝らしたものできれいでしたよ。
何といってもパレードはやはり踊りパレードが最高。年々他の町からの出場が増えています。いいことなのですが、地元ももっとがんばってほしいな。地元の参加が去年より減ったような気がしました。
踊りパレードも最高潮に達したときに悔しいかな、カメラの電池切れ。まったく情けない!今年もいいとこ撮れず仕舞いでした。ああ残念。
パレードしている人の中にも多くの知人がおられ、手を振ったり、声をかけたりしてくださいました。教え子にも会うことができました。一年で一番この日が私にとっては最良の日かもしれません。
何と次の日は朝から雨。でもフェスティバルの行事は消化したみたいです。フィナーレを飾る「打ち上げ花火」も強行されました。私は見ることはできませんでしたが、車の中からの見物というのも多かったそうです。
これで今年の一大イベントも終わり。来年も見れますように。
(読売新聞地方版「府中ニュース速報」より画像をスキャンして一部利用させてもらっています)
一大事業
もう6月の【つれづれに】や日記で知っておられるように、今年は我が家にとっては父が1970年に旅館の新館建築以来、いやそれよりは大きな事業を興しました。介護事業への参列です。
さかのぼること4年前ほどになるでしょうか。先々代からの我が家の貸屋(長屋)が老朽化し、修理が追いつかなくなりついに入居者には出てもらい取り壊しました。
さらにもう一件の長屋もどうしようもなくなり、その後をどうしたらよいかと家族で話し合っていました。
長男の友人に建設会社に勤めているのがいてそれに相談したところ、介護施設を建てたらどうか?という話になったらしいのです。どうも妻と息子とは話をしていたようなのですが、結構話が具体化するまで私は蚊帳の外でした。ですから妻から聞いたときは私抜きで話を進めていたことに激怒したのですが、結局業者と話し合いました。
何せ私は自分では出来ないのですから、結局は息子に頼るしかありません。まあ業者もパナホームで介護施設の方では結構堅実な歩みをされているようだし、お任せすることにしました。
ところが話が具体化していく最中に「法改正」の話が持ち上がり、持ち上がったかと思うとわずかの期間で改正され、そのため根本から計画を変えなくてはならなくなりました。
さらに我が家の土地の些細な問題、それに隣接する土地(共同出資地主で皆故人の土地がそのまま残っている)との問題で、利用できる土地が少なくなり、またまた設計図の変更。
法改正のおかげで、行政との折衝も一層複雑になりました。市役所に行ってもらちがあかない。質問状まで提出する始末です。結局は、新制度のもとでなんとかやっていくほかありません。
我が家の利用しようとする土地は、じつはほんの少し公道から奥にあり、公道までの出口が幅4メートルしかないのです。そうすると消防法かな何かで建築面積が決めてあるらしいのです。ですから建物の面積が約500uのものしか建てられません。これは仕方ないです。我が家の土地の面積は1000u以上はあるのですが。
いろいろ業者との協議した結果、簡単に言うと「老人専用アパート型福祉施設」を建てました。つまり二階が老人専用のアパート。一階が居宅施設・訪問介護ステーションを併設している施設にしてわけです。
もちろん小規模な福祉施設です。
施設の特徴は、ごく簡単に言えば二階は老人専用のアパートで、階下でデイサービスを受けられるということです。
それとアパートの利用者にも食事の提供ができること。その食事は大吉旅館旅館で培った他所では味わえない食事を味わえるということです。
計画が決定し残っていた長屋を取り壊し、梅雨入りの出来るだけ前から工事を始めたほうがよいということで、5月11日に地鎮祭を行い、数日後から縄張りが行われ、本格的に工事が始まったのは、5月下旬でした。おかげで長雨にたたられることなく順調に工事は進み、9月21日に建物受け渡しが行われました。
基礎工事から完成までの様子です。
もちろんそれまでに職員の募集、チラシ広告を行いました。おかげで開設するためにはどうしても必要な職種の職員もいい具合に就職してくださり、建築業者やコンサルタントも喜ばれるほどでした。
で10月7日には完成見学会。それまでのわずかな期間に職員研修。施設長になった息子も大変です。ありがたいことに見学会が終わったら翌日から営業活動。新介護法になって特にデイサービスの利用者の確保が大変です。私も施設長と営業活動にも回りました。もちろん職員は言うまでもありませんが。
11月1日、正式に開所しました。
思ったことと実際とはとかく違うものです。人は「大丈夫ですよ、今お年寄りはそんな施設を望んでおられるのですから。」といってくださる人がほとんどでした。でもよく考えると、お年寄りにはたいてい家族身内がおられます。ご本人は希望されても家族身内が反対される場合があります。逆のことも多くあります。なかなか思うようにはいきません。
それでもなんとか賃貸住宅のほうも利用者ができ、デイサービスも増えてきています。そう言う私も利用者の一人となり、貢献しています。ただデイケアでないので、正式なリハビリは受けられないので、デイケアの利用は続けざるを得ません。そのため、6年あまりお世話になった入浴サービスのヘルパーさんともお別れになってしまいました。本当に公私ともにお世話になったのに、何だか申し訳ないような気がしています。
施設のパンフレットの挨拶文に次のように書かせてもらっています。
私が脳梗塞で倒れ四肢麻痺となり、車椅子生活となって10年が過ぎました。この間家族はもとよりですが、多くの医療関係・介護施設関係の方のお世話を受けました。そこで何とかしてみなさまへその時お受けしたご恩をお返ししたいと思っておりました。
その私の意思を家族も受け入れてくれ、この度「高齢者複合福祉施設」を開設することにいたしました。
社会の中での完全参加、自立の困難な方々が自分の人生を継続し、認め合い、互いに助け合う暮らしを通じて、『で愛、ふれ愛、ささえ愛』の信念のもと、心が行き届く住まいづくりを作らせていただくことで、恩返しが出来ればと思っております。
いつまでもこの理念の元にスタッフと共に施設を運営していきたいと思っています。
先日の「クリスマス会」にも全国的な活動をされている子ども文化研究室の紙芝居朗読第一人者である「中平順子」氏を招くことができ、利用者だけでなく地域のお年寄りや子どもたちに喜んでもらいました。
妻には今まで以上の負担を強いることとなりました。なんとか効率的な運営ができるよう考慮しています。そうしないと妻は、旅館の経営・食事、それに施設の利用者の三度の食事とですから、大変です。常人では考えられないことを今やっています。なんとかしなくてはなりません。
これからも着実な歩みと共に、「ケアビレッジの心」を忘れず、スタッフと共に施設を盛り上げていきたいと願っています。
息子の婚約
もう一つ我が家には重大な出来事がありました。
それは長男が婚約して事です。親が言っても「今はそんな時ではない。」と言っていたのが、施設のこととまるで同時進行のように結婚問題もすすみ、こんやく・式の日取りまで決まりました。
本当に息子の片腕となってくれる人です。彼女は神か仏の思し召しでしょうか、現在介護関係に携わっている人なのですから。
すばらしい家庭を築いてくれることを願っています。