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12月25日


12月の「たんぽぽの会」


 11月の「たんぽぽの会」は、ビーチボールバレーでした。前にも書いたことがあり、たいしたハプニングもなかったので、報告しませんでした。

 12月の「たんぽぽの会」は、13日にあり、『クリスマス会』でした。去年妻がデジカメを水の中に落とし、写真が撮れなかったのですが、今年は撮れましたよ。妻も忙しかったのですが、カメラマンとしても付いていてくれました。

 今年もデコレーションケーキの制作です。大きさも去年と同じ直径10センチほどのケーキ台をデコレーションしました。
 白のクリームを台上一面に押しだし、イチゴ3個を正三角形に載せ、ヒイラギ、サンタクロースの飾りを配置し、最後にメリークリスマスと書いてあるチョコレートを載っけて終わり。
 クリームをたっぷり塗っている人、クリームが嫌いだと言って中心にちょっとだけ乗っけている人、でもほとんどの人が私のようにデコレーションしていました。
 この作ったケーキは会の終わりに食べるのではなくお土産にするようになっています。きちんと箱の中にしまいました。

 いよいよお待ちかねのプレゼントコーナー。
 まず、三角くじを引きます。私は5番。去年は小物入れ篭だったのですが、今年は何がもらえるかな。
 療法士の男先生がサンタ、一番若い独身の保健婦さんとがトナカイになるのですが、今年はどうなるのだろうと思っていたら、ミニスカートをはいたサンタさんと赤鼻のトナカイならぬ赤鼻のサンタさんです。保健婦さんがミニスカートのサンタさんなら良かったのですが、ミニスカートのサンタさんは療法士さんでした。そして赤鼻のサンタさんが保健婦さん。
 この療法士のサンタさんがおもしろい。わざとスカートの裾をひらひらさせたり、ちょっと持ち上げたり、爆笑を買っていました。
 さあプレゼントの配布です。引き換え番号を言ってからプレゼントをもらうのではなく、プレゼントの書いてある番号と一致する番号くじを持っている人が手を挙げて交換してもらうやり方です。
 はっきり言ってたいした予算があるわけではないので、平均100円程度のプレゼントです。でももらえると言うことがみんなうれしいのです。みんな小さな子どもに帰ったような顔になっています。そういう私も妻に言わせると童顔に戻っていたそうです。
 交換したらすぐ開けてみる人、家に帰って開けるという人、いろいろです。
 サンタさんが四角って薄っぺらなプレゼントを出して「5番!」といったので私は手を挙げ受け取りました。その瞬間包みの中身がわかりました。冬の必需品、そう携帯カイロです。中身がわかったので私もその場で開けないで家に持って帰ることにしました。
 
 お茶とおやつの時間は、ケーキを食べられなかったので一口パウンドケーキが茶請けになっていました。一つは多いので妻と分け合って食べ、妻のを母に持って帰りました。

 帰って小さなケーキを子どもと母、それに妻で分けて食べていました。私は甘いものはあまり好きではないので棄権したのです。

 と言うことで楽しいクリスマス会も終わってしまいました。来月は新年会になっています。これまた楽しみです。

真剣な表情ですよ。

自分の作っているのが一番だぞ。
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さてもう一息だ。
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どうだ!いいのができたでしょう。
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可愛いサンタさんでしょ。

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早く撮ってよ。



11月20日

嗣実に会いに行きました


 孫のつぐみに会いに宮津まで行って来ました。


 17日昼前に家を立ちました。息子がアルバイトでいなかったので、仕方なくタクシーで福山まで出ました。福祉チケットのタクシー利用券があるので助かりました。
 健常者だと時間に間に合うように駅に行けばいいのですが、私の場合は駅員の助けを借りるので早めに行かなければなりません。改札口で来たことを告げると、介助してくださる駅員が出てきてくれます。今回も業者を介して切符の手配を頼んだので、そこから乗り降りする駅にはすべて連絡されており、乗り換えもスムーズにできました。京都も宮津も駅員が出迎えて乗り換えホームへ連れて行ってくださったり、改札口まで連れて行ったりしてくださいました。

 新幹線で京都まで。座席は、11号車の14番です。この席は、本当の名称は多目的個室とか言うのですが、障害者と介助者が利用出来る個室です。個室の前は障害者トイレになったおり、とても便利になっています。一週間前に予約したので取れるかどうか不安でしたが、運良く取れました。
 京都で乗り換え、福知山経由、近畿タンゴ鉄道で宮津まで。私は乗り換えがないように行くため、ちょっと接続が悪いのですが乗り換え待ち時間は我慢して直通の特急で行きました。座席は洋式トイレの近くの席を取ってくれました。

 駅に着いた時はもうとっぷりと日が暮れていましたが、婿さんが車で迎えに来てくれました。列車で移動中は雨が降っていたのですが、宮津に着いた時はちょうど雨も上がっていて助かりました。
 家に着いたら早速つぐみもお母さんにだっこされてお出迎え。人見知りを始めたと言うことなので泣かれるかと思ったが、‘ニコッ!’としてくれ、うれしい限り。
 婿さんのお母さんも来ておられ、一息ついたところで夕食会。お父さんはお仕事で遅れられるとのこと。

 食事をしていても話題はつぐみのことばかり。みんなの話を聞きながら、そばにいるつぐみを見ながら、あやしながら口を動かしました。
 最近は夜機嫌があまり良くないと言うことでしたが、それでも愛嬌を振りまいてくれ、大人たちを喜ばせてくれました。私も持っていったデジカメで写真を撮ったり、抱いているところを撮ってもらったりしました。

 そのうちお父さんも来られ、男どもは杯を重ねることに。でも私は飲み過ぎないように気をつけましたよ。
 さすがに遅くなるとつぐみもぐずりだし、オッパイもらってお風呂に入っておねん寝です。

大人たちは遅くまでつぐみを中心にした話に花を咲かせました。あまり遅くなってはと向こうのお父さんお母さんはお帰りになり、婿も寝ると言って二階に上がってしまい、あと親子3人でしばらく話をしてから疲れているので、第一夜はお開きに。

 娘の家は今年孫が生まれる前にできたばかり、しかもバリアフリーなので、私にも動きやすく、快適でした。


 第二日目はゆっくりと起きて朝食兼昼食。昼間のつぐみはホントご機嫌。私たちを喜ばせてくれました。写真も何枚か撮りました。やっとお座りができるかなと言う状態で、オモチャを持って遊んでいる姿がこれまた可愛い。することなす事一つ一つが可愛くて仕方ありません。赤ちゃんを見てると本当に飽きないですね。

 午後は揃って夕食の材料を買いにマーケットに行きました。天気も良くて公園も散歩。この日はとても人が多く、やはり観光地だなと思いました。
 マーケットで妻はまるで家の買い物をするように買うので、「娘たちは二人だけだぞ」というと、「いいじゃないの、冷蔵庫に入れとけば。」という具合。これが母心か。

 帰って私はちょっとお昼寝。つぐみもお昼寝。その間に妻はビデオを見せてもらったようである。

 起きたらもう夕食の時間。赤ちゃんを守りしながらの娘に変わって妻が準備をしてる。それまで私はづぐみの観察。飽きない。
 
 今日は娘夫婦と我々だけの夕食。婿さんが我々が行ったことを喜んでくれてうれしかったよ。
 お祖父ちゃんお祖母ちゃんが孫は可愛くて仕方がないという気持ちがよくよく解りました。ホント舐め回したいような気分でした。
 こうして第二夜も終わってしまいました。

 
 三日目、もう帰る日になりました。良い時というのは本当にすぐ経つものです。最後にだっこしている写真を撮ってもらって、重い腰を上げてみんなに見送られながら帰路に立ちました。つぐみをこのまま連れて帰りたいような気分になりましたよ。

 帰りは新大阪に出てから新幹線に乗り換えて帰りました。
 そうそ、支線の特急は列車の出入り口が狭く、車椅子が入らないので、立って列車に乗らなければならないのが難です。私の場合は伝い歩きが出来るので何とか乗れましたが、全く歩けない人は困るだろうなと思いました。


 ということで、会いたい会いたいと思っていた孫にゆっくり会うことができ、大満足の三日間でした。今度は正月に来るかもしれません。それまでは、また写真で我慢です。

 
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はい、こっち向いて!お手手がおいしいかな
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ばあちゃんと一緒だよ
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どこ見てるのかな、お父さんの方を向いているよ
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おじいちゃんの方が緊張しているよ

10月31日


誕生日は別荘で


21日に56歳の誕生日を迎えました。今年の誕生日は別荘で過ごしました。すごいでしょう。別荘といっても、白い服に白い帽子をかぶった人と注射を打ってくれる別荘です。もうどこか分かりますね。
 ちょっと心臓の調子が悪くなり、16日から26日まで急遽入院しました。24時間心電図のモニターを付けて観察したのですが、入院してる間は異常がなくて、原因がはっきりしないまま退院です。いつものやつだろうということになりました。いつもというのは、アダムストーク症候群という異形狭心症です。
 この病気は、何の前触れもなく、突然心臓の冠動脈がけいれんを起こし、血管が針のように細くなり、心臓に栄養が届きにくくなり、心臓の痛みとひどくなると失神、その次は心臓停止となります。私の場合はひつこくて、一度の発作が長いのと連続して起きることです。
 ペースメーカーを埋め込む前は、失神して意識不明までなっていましたが、埋め込んでからは、心臓が痛い程度で済むようになりましたが、やhりきぶんは悪くなります。
 今回も12日から調子がおかしかったのですが、しばらくすると治まってましたし、発作を起こしているので医者に行っても診察室に入ると治まり、心電図には捕れない、ホルダーを付けていてもその間は発作が起きないと、医者泣かせ。
 16日似に発作が起こった時もやはり同じこと、仕方なく入院と相成ったわけです。2,3日の間に発作が起こるかも知れないと思っていたのですが、1週間経っても何事もありませんでした。そして26日に退院しました。
 誕生日の入院は、脳梗塞で入院した時と今回で2回目です。もう結構です。
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妻の母が実家で育てたのをもらってきました。


  

  

10月11日


10月の「たんぽぽの会」


 10月11日、10月の「たんぽぽの会」がありました。久しぶりに妻も最後までいてくれました。
 今月は私の誕生月なのでまず記念写真を撮ってもらいました。

 今日は運動会。前は弁当付であったのですが、ここ2年ほどは定例時間内で行われています。
 チームの名前は「サツマイモ」と「コスモス」。私たちのチームは「コスモス」です。

 まず『ウェスト・シェイプアップ』というゲーム。すごいゲームのように思えるのですが、なんてことはない、新聞紙で作られた輪っかを棒でスタートからゴールまでいくら多く運べるかというゲームです。輪っかを次の人に渡す時腰をひねるからこんな名前が付いたのでしょう。
 一回戦は、どちらも要領が分からずにやったからか、6対5で「コスモス」の勝ち。
 新聞紙の輪っかが大小あり、鎖がありと結構変化に富んでいるので、スイスイとはいかない。 
 なのに、どういうわけか2.3.4回戦ともに「サツマイモ」チームの圧勝。「「コスモス」は真面目にやりすぎたのかな。それともやはり不器用な者が多かったのかな。

 次は『この箱の中身は何でしょう』。箱の中に入れてある品物を当てる例のゲームです。1チーム3人でさわって答えを出すのです。
 私は今月の誕生者ということでチームに選ばれました。何が入っていたと思いますか。恐る恐る手を入れてさわってみてすぐに分かりました。でも手を入れてさわるまでが怖い。まあ変なものは入れてないことは分かっていてもやっぱり怖いものは怖い。それを悟られないように手を入れてさわるのですからこれまた難しい。
 3人がさわって答えを一つにまとめます。ざらざらしていてクッションがある、形は四角なものが多い、こういえば大体分かるでしょう、そうスポンジです。3人が同じ答、正解でした。
 「サツマイモ」チームに一人すごく小心な人がいて、その人がまた柄は大きな人だから怖がりようがとてもおもしろく大笑い、その上スタッフにも脅かされてなお一層おもしろかった。出された品物は、うどん・豆腐など食べ物がほとんどでした。どのチームも正解でした。

 最後は『大きなお口でくわえてね』。パン食い競争です。スタッフも家族も参加です。なぜってこれがおやつになるのですから。パン食い競争となっていないのは、歩けるる人・車椅子の人・杖の人がいるから競争にはならないからです。もちろん自分で思うようにパンをくわえることのできない人もいますよ。その人はスタッフか家族が手伝います。
 パンに三角くじが張ってあって、そのくじに点数が書いてあり、それで合計点数の多いチームの方が勝ちです。

 すべての競技が終わって得点発表がありましたが、私たちのチームは完敗でした。残念。
 でも汗も出たし楽しい一時が過ごせて良かったです。

10月9日


伯母の死

 
 10月7日午後6時4分、兵庫県芦屋市に住んでいた88歳の伯母が亡くなった。亡父の姉である。
 すっ飛んで行きたいところだったが、この体ではどうしようもない。母と私の名代として長男を通夜と葬儀に行かせた。

 伯母は戦争で旦那を亡くし、女手一つで三人の子どもをそれぞれ大学まで出した凄腕の人でした。亡父が三人の子の父代わりを努めたので、従姉と言うより私にとっては兄弟のような存在でした。
 今でも覚えているが、たぶんまだ小学生前だったと思うが、伯母の一家が帰省してきた時、うれしくて廊下の角の柱に巻き付いて、伯母に向かって「お母ちゃん」と言ったのを鮮明に覚えている。「この子、私に向かって『お母ちゃん』やて。」と言われたのも覚えている。なぜか「お母ちゃん」と呼んでみたかったのだ。

 小学3年生の頃祖母に連れられて私たち兄弟が芦屋に行ったことがある。まだ祖母も40台だったと思う。芦屋の浜で泳いだこと、その頃は抜けるように綺麗な海の色と白い砂浜が目に焼き付いている。
 そうそ、三宮に着いた時、伯母が迎えに来てくれていたのだが、阪神電車に乗り換える時に、私を就学前児にしてしまったのだ。つまり運賃タダ。『正明、黙っとりよ。あんたは小さいから判りゃあせんから。」伯母はこの調子で生きていかざるをえなかったのだろう。

 中学生の時に伯母の家に行って、従兄と一緒に映画を見に連れて行ってもらったこと。その時に映画の題は、ジョン・ウェインの『バッファロー大隊(?)』だったと思う。映画を見ての帰り、従兄と二人で「キャップテンバッファロー」と歌いながら歩いているのをうれしそうに眺めていた伯母の顔が浮かぶ。

 大学へ行きだしてからは、帰省するたびに伯母の家に途中下車したものだ。なにせその頃はまだ新幹線は学生にとっては高嶺の花だったし、兵庫まで5時間、大阪から東京まで10時間かかっていたから、伯母の家がちょうど中継点としても良かった所為もある。一泊の時もあれば一週間近くの長居をしたこともある。
 もちろん伯母は働いていたから、留守番もする時もあった。でも夜は何とか甥を喜ばそうと懸命に努力されていたと思う。珍しい料理をしてくれていた。「正明がこうして寄ってくれるだけでもうれしいわ。」とよく言っていたものだ。

 25年ほど前、癌の手術をした時、たまたま私が関西出張をしての帰り、運良く翌日が日曜日か祭日に引っかかり、途中下車して見舞ったことがある。その時、伯母は泣きながら、「良く来てくれたねえ。」と喜んだものです。

 父が亡くなった時も一番に駆けつけてくれ、「私より先に逝くなんて。」と悲しみました。たった二人兄弟で、実母に早くなくなられたせいか、姉弟の絆は強かったものです。父も姉の言うことには耳を傾けていましたし、伯母も父の言うことを聞いていました。

 祖母(伯母にとっては継母だが)が亡くなる前日に見舞いに来て、祖母の手を握ってお別れをし、次の日に祖母は息を引き取りました。本当の母のようにしたっていたと思います。

 私がこの病気になった時はとても心配をし、毎週のように見舞いに来て励ましてくれ、、「あんたに元気になってもらわんと、おじちゃんに申し訳ないわ。」と言ってました。本当に頭の下がる思いでした。がんばらねばと思ったのも伯母のおかげがあったかもしれません。

 従兄の長男の奥さんが10年ほど前に病死され、そのあと従兄が後添えをもらうまで伯母が二人の孫の面倒を見ながら、家事から世話をしていたのです。

 この一年は、いろんな所へも出かけたようです。3月に我が家に来られた時は、随分年を取ったなあとは思いました。
 6月には孫の結婚式でハワイまで行きました。どうもそのあとから体の調子が良くなくなったようです。大儀い、しんどいと言っては横になっていたようです。それでも私が出した暑中見舞いの返事を8月24日の日付で下さいました。結局それがおばさんの絶筆のものになったようです。
 
 9月に入り、ますます調子が悪くなるので病院へ入院検査したところ癌だと言うことが分かり、しかももう長くないだろうと言うことで、母もすぐ見舞いに行ったのですが、それから僅かひと月も経たないうちに亡くなってしまいました。

 先ほど母と息子が帰ってきて、穏やかな顔をしていたとのこと、伯母も満足して逝ったのだろうと思います。
 
 これでまた一つの歴史に幕が下りました。伯母はいなくなりましたが、従兄とはこれからも兄弟のように接していくつもりです。
 

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庭に格好な花が咲いていないので生け花にしました

9月28日


結婚記念日


 今日9月28日は私たち夫婦32回目の結婚記念日です。
 1970年9月28日、福山市立の結婚式場『福寿会館』での神前結婚。
 実はその神前結婚式でハプニングを私が起こしたのです。最後「誓いの詞」の最後に日付を記入する際に何と日付を間違って、9月26日と書いてしまったのです。すぐさま仲人さんに注意を受けて書き直すという出来事があったのです。
 そのためか、どうしても私は自分の結婚記念日を正確に覚えることができなくなりました。
 去年間違えたので、今年は間違えないぞと「明日は結婚記念日だろ。」と妻に言うと、「何言ってんの。もうお父さんは記念日覚えられないのだから。」と言われる始末。とにかく26・7・8のどれかだということは解るのだが、どうしても毎年間違える。
 今年もそうだ。私の妹の結婚記念日が28日だから私たちは26日だと思い、26日当日妻に、「今日の日はなんだか知っているか?」と、得意げに聞くと、「またお父さん今年も間違えた。記念日は28日よ。」と言われてしまった。「妹さんは30日。私たちが28日。本当にいつになったら覚えられるの。」逆にやられてしまった。
 みなさんはちゃんと覚えていますか。

 でも正確も全然違うのに、喧嘩ばっかりしてきたのに、良くもまあ31年間も持ったものだ。とは言っても文句を言ったり面倒をかけてきたのは私ばっかりのような気がする。退職したら妻と旅行でもしようと思っていたのに、それが、こんな病気になり、それも出来なくなってしまった。これからあと何年世話をかけるのだろうか。これからもよろしくお願いします。
 

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秋の花を生けました。ススキ・コスモス・キンモクセイ


9月15日


初孫嗣実とも出会い


 9月13日娘が生んだ初孫・嗣実がやってきた。
 私は「たんぽぽの会」のある日で、それに参加。娘夫婦は神戸にいる友達の所に寄ってくると言っていたので、その留守中にやってくるのではないかと思いながら会を過ごし、3時半頃会が終わって急いで帰ってみたがまだ来ていなかった。
 そこは娘からрェあり、まだ神戸にいる、そちらに着くのは夜8時頃になるという。ちょっとがっかり。
 仕方なくまず昼寝をする。6時頃起きて今度はパソコンに向かう。

 7時40分頃犬のハルが泣き出したので、窓から駐車場を見ると婿さんらしい人が見えた。 どうしようか、表に出ようかと思っているところに娘が孫を抱いて私の部屋のやってきた。
 「おじいちゃん、嗣実でちゅよ、初めまして。」「おう、やっと来たか。しっかりした顔しとるのう。写真をずっと見ていたから何か初めて見るようには思われん。でもやっぱり本物がええ。おおい、嗣実、おじいちゃんだゾ〜。」と呼びかけると、にこっと笑った。何とも言えない笑い顔。もうダメって感じだ。抱かしてくれたのだが、重い、今6kgだとのこと。私には重すぎる。「重いなあ、落としそうだから返すわ。」と本当はもっともっと抱きたいところだが、何かあっては一大事、早々と母親に返す。

 今夜はあいにく旅館少々忙しく、夕食が遅くなり9時から始める。その間に嗣実はお母さんにポリだらいのお風呂に入り、食後のオッパイを飲んで寝てしまった。久しぶりなので話題がつきず、夜中まで食事をしながら話をする。婿さんも子どもができて喜んでくれているのでホッとした。


 14日、昨夜が遅かったので、私も娘たちも朝はゆっくり起きる。嗣実も疲れが出たのか、お乳を飲んでは寝・飲んでは寝だ。
 午後、帯ーのソファに寝かせると、盛んに呼びかけるというのか独り言というのか、「おう、あう、ああ。」としゃべっている。こんな時呼びかけてやると、呼びかけられた方を向いてにっこりとする。とても愛嬌のある赤ちゃんだ。曾ばあちゃんなんか私以上に目を細めて、「これじゃあ一日見っとっても飽きんわ。」などと嗣実から離れようとしないのである。

 婿は散歩に、娘と妻は買い物に出かける。その間、私はパソコンをしたり、昼寝をしたり。
 食事前に嗣実と娘をデジカメで写真を撮る。これは、全員写真を撮る時のフラッシュのテストも兼ねてだが。外部ストロボを炊きたいのだが、マニュアル撮影だと外部ストロボが使えるのだが、セルフタイマーの時はオート撮影でしか出来ないことが解り、全員写真がうまく撮れるかどうか少し不安になる。
 
今夜は泊まり客が無く、しかも次男も会社が休み、妻の母親(嗣実の曾祖母)も来て、揃って水入らずでゆっくりとしたパーティーができた。
 婿がヒラメの刺身が好きなのでそれを用意し、ヒラメのアラの唐揚げ、そしてお寿司と我が家で作った土瓶蒸しでもパーティーと相成る。
 今夜は嗣実もパーティーに加わってお母さんの膝の上。にぎやかなのに圧倒されたのか目を丸くしていた。当然嗣実がいる間はもっぱら話題は嗣実のこと。婿もうれしそうに父親らしく我が子の成長ぶりを自慢げに話をする。
 途中嗣実が眠くならない内にみんな揃って記念撮影。何とかうまく撮れた。
 そのあと嗣実はお風呂へ。そのあとはもちろんお乳を飲んでお休みだ。
 男どもはビールを飲みながら話に花が咲く。女性に迷惑をかけてはいけないので今夜は9時過ぎにはパーティを閉じる。


 15日、もう今日は嗣実の帰る日だ。2泊3日とは短すぎると思うが、外孫だし、仕方ないか。
 私がまだ寝ているところに妻が嗣実を抱いて、「おじいちゃん、おはよう、いつまで寝ているの。」と起こしにやってきた。そして私の脇に嗣実を置いた。普通の人なら片肘着いて孫を眺めながら話しかけられるのだろうが、私にはそれができない。首を何とか曲げて眺めて声掛けするしか出来ない。それでも呼びかけに反応して笑ってくれた。それから私のお腹の上でだっこ。これはちょっと嗣実おっかなびっくりの様子。その様子を妻がデジカメに取ってくれる。結構傑作が撮れた。
 ついでにイスに座って抱いたところと妻と三人を娘が撮ってくれる。嗣実がいい子していてくれたからうまく撮れた。

 お昼前にはさよならだ。私は玄関で見送り、曾ばあちゃんと妻は車が出発するまでの見送り。帰ってしまうと一気にたがが外れたような気分に襲われ、昼からはベッドでゴロゴロばかりしてしまった。
 今度会えるのはいつだろうか。娘は家も新しく建てたことだし、ぜひ来てくれと言っているが、曾ばあちゃんも行きたそうだし。とは言え3人揃って家を空けるわけにもいかないし。冬は雪が多いところだからいけないし、まあ、ゆっくり話するか。こちらが行かなければ、次に会えると言ったら3月だろうな。でもやはりそれまでに顔を見たいよ。

つぎのURLより、嗣実のギャラリーが見られます。ぜひ覗いてください。たくさんの中から厳選して載せました。
  http://asp.i-mediatv.co.jp/apps/album/public/?target=ZNVS1001156177594
     パスワードは kinotyan(小文字の英字) です。
もっとたくさんの写真が見たければ、
http://photo.ai2you.com/ImagingPark/jsp/album_enter.jsp?ID=66CC887F-B519-4032-B675-9EA365E2A437
 にアクセスしてみてください。


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おじいちゃんと一緒でうれしいな?
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おじいちゃん、オランウータンだよ
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おじいちゃんのお腹の上でおっかないな
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おばあちゃんも一緒に
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おじいちゃん一人うれしそう
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 ご存じですか、ニラの花


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  今年最後の月下美人が一輪だけ咲きました

9月13日


9月の「たんぽぽの会」

    
 先月は入院していたために出席していないので、二ヶ月ぶりの参加です。
 行くと保健婦さんが、「入院すると聞いていたのだけど、何で入院されたのかな。誰も理由を分かってなかったから。」
「ペースメーカーの入れ替えですよ。」
「そうだったの。それであとは順調ですか。そうそう、可愛い暑中見舞いありがとう。可愛いイラスト持ってるんですね。それに可愛い孫さんの写真。孫さん来ちゃったの?」
「実は今日来るんです。ここから帰った頃来るんじゃないかな。三ヶ月になったから、首が据わったので。」
「あらま、じゃあソワソワですね。何かあったら相談に乗りますよ、保健婦だから赤ちゃんのことも扱うし。」

 他の参加者からもお久しぶりというような顔を見せたり、声掛けをもらったり。みんなそれぞれ参加者の出席を気にしているようです。私も気にします。高齢者が多いことと再発する人が多いためでしょうか。私が参加するようになってからも何人もの人が亡くなっておられます。6月私が入院している間にもよく知った人が亡くなっておられます。以前は近所で組内だった人です。でもみなさん知っておられても口には出されません。自分もいつどうなるか分からない人ばかりですから。私も「あの人最近参加されないけど、どうされたのだろう。」とは思っても口には出しません。一度保健婦さんにも聞いたことがありましたが、保健婦さんも言いにくそうだったので、それからは聞かないことにしました。参加されるのを見て、「ああ、元気に参加されている、よかった。」と思うようにしています。他の人もそう思っておられるのでしょう。
 
 今日のメインは『ベンチサッカー』です。対面でイスに座ってビーチボールを蹴ってゴールするゲームです。
 最初はサッカーそのもの、足と頭だけ使ってゲームしたのですが、なかなか両チームともゴールできずに無得点。そこで審判している療法士の先生が、「それでは手も使ってもよろしい。」と言われ、皆俄然ファイトを燃やしたようです。足より手を使うサッカーに変身。
 笛が鳴ってボールが投げ込まれるや、ボールを中心に4人がボールの奪い合いをする。引ったくるように捕る人、さっと抱え込むようにする人、ボールを摘み捕ろうとする人、それぞれですが、なにせ片手が不自由な人がほとんどですから、捕ってもすぐ捕られたり、せっかく捕ってもゴールに投げられない。チーム仲間にパスしようとしてもそれがうまくいかない。ほとんどボールの奪い合いになってしまいました。
 自分の近くにボールが来ない時はその奪い合いの様子を見ているのですが、すごいの一語。これが体の不自由な人たちかと目を疑うばかり。嫉視の形相、よく動かない手足もどういうわけかいつもよりも動いている。本当に写真を撮っておけばよいようなシーンの連続でした。写真がなくて残念。応援している家族の人も保健婦さんも大笑い。
 という私も必死である。ボールがそばに来ると引っ張り込んで抱え込む。もちろん前に敵がボールを持てば捕りに行きます。私の場合は幸い何とか両手が動くし、握力も小学低学年並にあるので、ボールを両手で掴み取ることができます。
 でもそこからが問題。方が上がらないので、ボールを高く掲げてシュートすることができない。敵の邪魔する手の間をうまく縫ってシュートしなければならない。ホイホイと動くわけではないから、すぐにボールを捕られてしまう。私の座っている場所はゴールに近いのでうまくタイミングが合うとゴール出来るのです。
 両チーム白熱したゲーム展開で、12対12の同点で終わりました。冷房の利いている部屋でしたが、笑うのと必死にボールを追いかけるのとで、みんな額に汗を浮かべていました。何と私は12ゴールの内3ゴールしたのですよ。すごいでしょ。

 あとのお茶のおいしかったこと。みんな満足した顔でした。来月は運動会です。またがんばるぞ。
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今年も終わりです モクゲ
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今年二度咲きのノウゼンカズラ

  
                


8月26日

ドレミファ祭り

 
 25.26日はわが府中市の夏祭り「ドレミファ祭」です。参議院選があったためひと月遅れの開催です。入院してて祭りが見れないかと思っていたのですが、24日に退院したので間に合いました。
 25日は、郷土名産の一つ箪笥と使っての「たんすリレー」やフリーマーケットが昼間ありました。
 「たんすリレー」は、台付きで200kgの箪笥を神輿よろしく担いで、その速さを競うレースです。箪笥ですから引き出しがあり、斜めにすると抜けてしまい、泊まって抜けた引き出しをはめてまた走るのです。途中、折り返し地点で通行手形を受け取らなくてはなりません。威勢よく走ろうと思ってはみんな一杯飲んでから走るのですから、おもしろい。服装を凝らしたチームもあります。去年までは家の前がコースだったのですが、今年から変わったので私は見に行かれませんでした。一昨年の写真を載せます。
 また、今年も我が家は『浴衣無料着付け』の会場になったので、結構な人が着付けに来ていました。踊りに出る人、見物に出る人、若い子が多かったようです。
 夜は、パレードです。小学校のトランペット鼓隊や、企業の山車付きパレード、各町の山車のパレード、ボランティアグループのパレードなどです。
 私が退職した時1年生だった子供たちが6年生となってトランペット鼓隊でパレードしました。そして私の前で行進を一次止めて私のほうに列を向き直り、敬意を示してくれました。その時は胸に万感迫るものがあり、つい泣いてしまいました。本当にありがたいことです。どうも新旧の校長の間で申し送りがなされていたようです。パレードが終わってからわざわざ顔を見せに来てくれた子もいました。
 パレードを診ていたら、たくさんの教え子が子どもを連れたり、旦那さんを連れて挨拶に来てくれました。実はこれも私の祭の日の楽しみの一つなのです。教え子の成長を見れるのがうれしいのです。
 最後は踊りパレードです。町内会・企業・各種グループ20団体ほどが踊りました。ほとんどが「府中タンス音頭」を踊るのですが、『備後国府太鼓』のグループはオリジナルなものを毎年踊ります。その踊りの写真が撮れましたので載せます。言い写真が撮れたと思っていますが、もっといい場面もあったのですが、この日初めてマニュアル操作でデジカメを撮ったために操作ミスをいっぱいして、せっかく撮った写真もパアにしたりしてしまいました。
 同僚だった校長さんたちも顔を見せてくれました。つい、私も元気だったらなあと思ってしまいました。
 パレードは10時までありました。パレードが終わった頃友人が来てくれ、11時過ぎまで話しました。
 26日は、河川敷で『太鼓フェスティバル』があったのですが、生きませんでしたが、音だけは風に乗って聞こえました。
 夜は花火大会。妻に花火がよく見える土手まで連れて行ってもらいました。結構な人出でした。花火も写真に撮ってみたのですが、これは難しい。気に入ったのは一枚もありませんでした。
 缶ビールを飲みながらの花火、よかったですよ。田舎ですから2000発ほどの打ち上げ花火でしたが、まあ満足しました。
 これで今年の夏もおしまいです。
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タンスリレーの一コマ
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引き出しがすぐに抜けるので用心、用心
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これは中国電力の山車です
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地方銀行の踊りグループ
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参加人数も多かった「備後国府太鼓」グループ
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綺麗に撮れなかった花火

8月25日


国立岡山病院入院日記



8月6日(月)  一日目

 6時過ぎに起きればいいと思っていたのに、やはり気になっていたのか5時半過ぎには目が覚めてしまった。もう少し寝ようとしたが結局寝れず、6時に起きる。
 8時半には出発したかったのだが、下水道の工事の関係者と妻が打ち合わせをしたりしていて15分遅れで出発。ガソリンを給油して長男の運転で一路岡山へ。我が家から25分で山陽道に入り、10時には岡山インターに。
 10時5分には病院の駐車場に到着。病院は今年の4月にできたばかりで10階建ての大きな建物。前の建物はいかにも国立というような代物だったが、今度の建物は私立の付属病院みたいである。
 入院手続きが終わって9階の病棟へ。看護婦の問診が終わってやっと病室へ。
  四人部屋で部屋で洗面所・トイレ付きである。ただトイレに車椅子のままで入れないのは設計ミス、不安定な姿勢で立ってトイレに入らなくてはならない。洗面器も車椅子に座ったまま利用するにはちょっと高めかなあ。
 ベットもこれまでの病院のベットとは違い、横幅が短く家で利用しているのと同じサイズだ。しかし電動である。
 さすがに新しいので部屋の中の調度品もきれいである。
 昼食後、副担当医師と患者の私と妻の三人での面接。30歳くらいの女医さんです。前にお世話になった先生は今は部長さんでお偉い人になっておられます。問診の後、今回の手術についての説明、そしてあってっはならないが手術の危険性を聞いて、手術の同意書にサインをさせられる。電池の入れ替えと言ってもペースメーカー本体をそっくり替えるのです。もし心臓に入れているリード線が使えそうにないと、私はすでに2本入っているのでこれ以上リード線心臓に入れると血栓のできる原因になるのでもうこれ以上入れることはできないので、ペースメーカーは取り出すだけで入れ替えはしないとのこと。そうなると心臓発作を起こすと大変なことになるのだけど、仕方ないのかな。
 入院したら途端に病人扱い。安静度が病棟内行動許可。他に行く時は看護婦の介助を必要とするそうである。今は妻がいるので特別に許可が出て、院内探索へ。
 と言っても1回の売店まで。テレビの設置を依頼し、缶コーヒーを買って、リハビリ室を覗いて病棟へ帰る。談話室でコーヒーを飲んでいると、早速心電図測定と胸部レントゲン撮影をするように指示がきた。ちょうど妻が家に電話しいている間のことだったので、私がいなくなって妻はあわてたようである。
 終わって部屋に帰るともう3時過ぎ。妻の帰る時間だ。金曜日の手術までお別れだ。家のことが気になるのだろう、さっさと帰っていった。
今度は心エコー検査。本当に病人になってしまった。
 夕食まで一寝入りしようとしたが、くたびれているのに寝れず。採血がある。ベッドに横になって休む。
 この病院は消灯後のTVを見る人が誰もいないので、TVを見るのを遠慮したので、夜がますます長い。8時から1時間見たら消灯。11時過ぎまで眠られず。でも知らないうちに寝ていて0時の薬を飲ませに看護婦に起こされてちょっとびっくり。飲んだ後もすぐに寝てしまった。


8月7日(火)  2日目

 今日から本格的な入院生活始まる。
 9時半からリハビリ。まず、肩を伸ばす運動。滑車で吊ってあるロープを握って腕を上に伸ばすのだ。それを30分ばかり続けると、腕がだるくなった。続いて平行棒を持ちながらの歩行訓練。最後に杖を持ち、療法士に支えられながらの歩行訓練。左手を痛めているので杖を右手に持ってだから、不安定で仕方がない。ふらふらしながらやっと歩く。久し振りでもあったので、疲れた。
 午後、シャワー浴してもらい、すっきりと。
 6時頃から心臓に血栓ができていないかを診るための心臓エコーを食道側から詳しく撮ると言うことだっだが、始まったのが7時半過ぎから。ちょうど胃カメラを飲むように胃カメラに管より一回り太い管を飲み込むのだ。副担当医師がのどの麻酔をしたのはいいけど、担当医師がなかなか来ない。麻酔が切れだして、もう一度麻酔を。
 やっと医師が来て管を飲み込む。が、途中管が太いので、痛いし、気管を圧迫して息ができず、やり直し。死ぬのではないかと思ったくらいしんどかった。2度目痛いのを我慢してやっと飲み込む。
 それから1時間近く検査されたのではないか。終わりですと言われたのが、9時だった。
 終わってもすぐには食事ができない。消灯になっているので部屋では食べられないので、談話室で一人寂しく10時過ぎに食べる。遅食はご飯とインスタント味噌汁だけだ。看護婦さんがかわいそうに思ってお昼に出たゼリーの余ったのをサービスしてくれる。10時半過ぎに食べ終わり部屋へ戻る。もう歯も磨かずに寝てしまう。


8月8日(水)  3日目

 9時半よりリハビリ。昨日の検査疲れか、眠くてリハビリ前に寝てしまった。おかげでリハビリの間中眠くて困った。今日は平行棒の代わりに歩行器で歩いたが、歩行器を利用しての歩行訓練は初めてで、安定せず難しかった。杖を使っての訓練は昨日よりは楽にできたと思う。
 午後ホルダーを取り付ける。ホルダーとは24時間心電図を記録する携帯器具です。これを取り付けると行動をいちいち用紙に記録しなければならない、結構神経質になります。寝るにもじゃまになるし。
 後は何もすることもないし、ベッドでごろごろしたり、パソコン打ったり、電子ブックを読んだりして過ごす。
 やはり夜が早すぎて寝られず。


8月9日(木)  4日目

 9時半よりリハビリ。今日は自転車のペタル漕ぎをする。もちろんそのままではサドルに座れないので、台を持ってきてなんとか座れる。膝が痛くならないかと不安だったが、大丈夫だった。でもスイスイというわけにはいかず、ペタルを踏み込む時にぎくしゃくする。ペタルを踏むなんて5年ぶりで、しかも膝を痛めてからはほとんど自転車にも乗っていなかったので、疲れて膝がガクガクしだした。だからその後の杖を使っての歩行訓練は最悪。明日手術なのでしばらく休むことを伝えておく。
 午後、術後に打つ抗生物質が合うかどうかのテストがあり、合格。
 手術前日なのでシャワーにも入れてもらう。
 当分パソコンも打てなくなる。打っていると看護婦さんが覗いて、「看護婦さんのことも書いているの。」と聞く。
 後は明日の本番を待つだけ。


8月10日(金)  5日目

 いよいよ手術当日。
 8時頃から術前処置。まず点滴針の差し込み。血管が浮かないので看護婦さんも一苦労。三度目にやっとうまくはいる。プラスティック針で、太いのだけど腕を動かせるので、ここではいつもこの針を使う。
 10時半手術の予定が30分早まり、妻の到着が間に合うかどうか心配したが、予定より早く着いて間に合った。じつは浴衣寝間着が手術着として必要だったのを持ってきていなかったので、今日持ってくることになっていたからだ。その寝間着に着替えると言うところに来たのだからまさにグッドタイミング。そして尿道カテーテル。
 すべて準備が終わって手術室に行ったら、もう待っておられて早速手術開始。
 手術用布が敷かれ局部麻酔が始まる。6,7本打ったら利いてきた。担当スタッフの「お願いします。」の挨拶後、執刀が始まる。局部麻酔なのでスタッフの会話もみな聞こえる。ペースメーカーを取り出す時、ちょっと引っ張っていたのか痛かった。 リード線がよくないとこれ以上リード線を心臓に入れることができないのでペースメーカーも取り出したままで新しいのは入れないと言われていたのだが、会話を聞いていると「きれいですね。」と言われていたので入れ替えができたのだろう。
 縫合の時ちょっと痛くて声が出たけどなんとか終わった。「終わりましたよ。入れ替えができましたからね。」と言われて一安心。時間は手術室に入って出るのに2時間ちょっとかかったようだ。
 術後は、CCUの病室で一晩過ごす。体を動かしてはいけないので、それがつらかったが傷の痛みもそんなにひどくなくまあ楽に過ごされたのではないかな。術後すぐ昼食が出たが、妻に食べさせてもらう。妻は付き添いでずっと付いてくれていたので安心。担当医から正式に手術の成功を妻と聞き安心する。
 後は寝るだけ。夕食も普通にし、時々看護婦が点滴の交換にくるくらい。長かった一日も終わった。


8月11日(土)  6日目

 夜中傷の痛みも我慢できないというほど痛むことなく、ぐっすり寝れた。
 昼前には元の病棟へ戻る。部屋は同じ部屋ではなく隣の部屋。
 左手にしている点滴用の針を打っているところが痛いし、もちろん傷跡は右手に力を入れようとすると痛くて力は入れることができない。だからベッドに起きることはもちろん車椅子に乗り移るなんてできっこない。食事はベッドを起こして食べる。妻が付き添ってくれているから今はいいが、妻がいなくなったら看護婦さんに迷惑をかけるようになること間違いなし。
 手術前まではトイレに自分でなんとか危険を冒して行っていたが、もし転びでもしたら大変なことになるので、助けてもらうことにした。妻がいる間はベッドで尿を尿瓶で採ってもらっているが、いなくなるといちいち看護婦さんを呼ばないといけないのが難儀である。
 入院すると運動不足から便秘がちになるのに加えて、看護婦さんを呼んでおきながら不発に終わった時は申し訳ないとか思ったりしてつい遠慮がちになり、タイミングを外すようになりますます便秘する元を作ることになる。遠慮しちゃあいけないのだけど。
 術後の熱も出ることなく、順調に回復しているようだ。


8月12日(日)  7日目

 朝夕の点滴もプラスティック針のおかげで、点滴の度に針を刺さなくてもよいので、これが楽である。
 昼食後、1階の売店まで妻のお弁当を一緒に買いに行く。2階のロビーでお弁当を食べてる間、私は電子案内パネルを見て過ごす。
 部屋に帰ると、傷口の交換に医師が来たとのこと、そうなるのではないかと思っていたのがそうなってしまった。結局この日はガーゼの交換はなし。
 妻が付き添ってくれるのも今日まで、明日帰るのだ。


8月13日(月)  8日目

 今日の昼食からベッドから降りて頭床台で食事をする。昼食中に便意をもようし、行儀悪いがトイレに。便秘しているし、おなかの中心に力が入りにくいので、難産である。妻にお腹を押さえてもらいながらやっと出る。
 すっきりして食事を再開したかと思うと、そこに「体を拭きましょう。」と看護婦さんが来る。後回しにしてもらうともうしてもらえないかもしれないので、食事を切り上げて体を拭いてもらう。すっきりする。
 腹が減りそうなので、妻の弁当と一緒にパンと飲み物を買ってきてもらい、それを食べてしのぐ。
 妻の帰る時間が来た。寂しくなるが仕方ない。バイバイ。次は日曜日か、うまくいけば土曜日に来て日曜日に帰るようにすると入っていたが、お客があるので最悪これないかもしれない。子どものようにだだをこねるわけにも行かず、我慢あるのみか。 早速トイレに行くのに看護婦さんを呼ぶ。こちらが気兼ねすること入らなかった、当たり前のようにしてくださる。安心・安心。消灯以後はベッドサイドに立って尿瓶にすることにするが、じつは立ってするのも至難のことなのだ。足を踏ん張ることに力が入って、なかなか出てくれない、足がふらついてせっかく出ていても力が足の方に行くと止まってしまうのだ。また眠剤を飲んでいるので余計にふらつくのだ。看護婦を呼べばいいのだろうが、やはり遠慮してしまう。気を遣いすぎかな。でもこれが私なのだから。


8月14日(火)  9日目

 またホルダーをつけた。術後の心臓の動きを診るためだ。
 ベッドに横になってばかり、これではいけないとパソコンを出して日記を打ったり、本を読んだりするがそれも15時から2時間ほどだ。
 夜の点滴で点滴が終わり、針も抜いてもらえたので左手を動かしても痛くなくなりやれやれ。
だんだんと目新しいことが無くなり、書くことも少なくなってきた。

 
8月15日(水)  10日目

 午前中にホルダーをはずし、午後体を拭いてもらう。今日はこれだけだと思っていたら、エコー検査が入ってきた。首筋の血管が細くなっていないかを診るためだ。本当に今は何でも器械検査。しかもコンピュータ内蔵だからすごい。首に超音波発信器を当てると首の中の大動脈や大静脈が輪切りの状態でディスプレイに表示されるし、プリントアウト・フロッピーへの保存と、すごい物だ。検査結果状はなかったようである。
 爪を切ろうと思って看護婦さんに頼んだらナースセンターにあったのは小さくて親指の爪が詰めない代物。同室の人が持っていたので、それを借りて看護婦さんが詰んでくれるが、あまり上手ではなかった。
 今朝6時から心臓の薬が変わる。ニトロールとアダラードが無くなり、アダアラード20ともう一つ新しい薬になった。一回二錠である。これがうまくいくと薬代ずいぶんと違うことになるだろう。
 夜中尿意をもようしベッドから起きようとしたが、どうしても起きることができずに看護婦さんを呼んで起こしてもらう。たまにこのようなことがあるのだ。


8月16日(木)  11日目

 今日で手術一週間。傷口の半分を抜糸。うまく傷口はくっついていた。明日残りを抜糸するということだ。
 洗濯しようかと思ったが、籠が大きくちょっと運ぶのが難しいのでやめた。明日もし体を拭いてもらえたらもうパジャマが無くなるし、今週妻が来れないことになるとどうしても自分で洗わなくてはならなくなる。明日にでも電話してみよう。
 その他には変わったことなし。
 

8月17日(金)  12日目

 残りの糸を抜糸。それから月曜日からリハビリを再開できるように頼んでおく。
 妻に電話する。やはりお客があって、この土日は来れないようだ。洗濯物がたまっているというと、裕司に頼んでみたらと言うので裕司に頼むと、日曜日ならいけるだろうと言ってくれる。妻は月曜日くらいに来るとのこと。
 私の安静度はいつAになるのだろうか。早く自分で1階の売店に行けるようになりたい。


8月18日(土)  13日目

 一日に変化なく、土曜日だし病棟内も静かだ。今日明日と退院する人が多そうだ。 昨日シャワーをしてくれると思ったが、今日か明日になっていると言うことだったが、今日はなかったので明日は入れてもらえるだろう。よその病院では土日に入れてくれないのだが、ここは入れてくれるらしい。
 ここ数日消灯後TVを11時まで見ている。昼寝が過ぎるのか、寝なければいけないと気負いすぎるからかどうしても0時の薬まで寝れないのだ。10時過ぎに看護婦さんが見回りに来るが、何も言わないので安心したのだ。


8月19日(日)  14日目

 午前中にシャワー。今日は傷口にテープをして本格的にシャワーしてもらう。
 裕司が来てくれる日だ。彼のことだから午後の来るだろうと思っていたら、やはり午後2時前に来た。
 来るなり早速洗濯。洗濯が終わるまではパソコンいじり。乾燥機を回している間に1階に連れて行ってもらう。ほしかったコーヒーボトルを買って上がる。
 乾燥する間、車椅子に空気を入れてくれる。そしてパソコンゲームをし、乾燥が終わったらたたんで片付け、それでは帰るからさようなら。やはり妻とは違う、まあ仕方ないか。
 看護婦さんに聞いたが、やはり一人では病棟外へは行けないらしい。自分では大丈夫なのだが、医師の命令では仕方ないか。
 5時過ぎパソコンをやめてベッドに横になっていると心臓が重くなってきた。でもペースメーカーは働いていない。ちょっと脈が弱いかなと言う感じだ。看護婦を呼べばいいのかどうしようかと悩んでいるうちに症状が収まった。だいたい10分ぐらいかな。夜の看護婦回診の時それを言うと、今度そういうことがあったら必ずナースコールするようにと言われる。
 今夜もロードショウを見て寝る。


8月20日(月)  15日目

 リハビリ開始を頼んでいたが、医師からストップがかかったそうだ。薬のコントロールのことがあるのか、それとももう退院が近いからか。
午後医師が回診に来た時、昨日のことを言ったらやはり看護婦を呼ぶように、いけなければ薬を増やさないといけないし、と言われるが、ぼつぼつ退院のことも考えないといけないし、とも言われる。
 妻に電話し、医者の言ったことを言うと「今週はどうにもならないから、来週にしてもらって。」という。
 部屋員に入れ替わりがあった。私は入り口側の左、窓側の左の人が手術のため外科病棟に変わったからだ。その後に心筋梗塞でバイパス手術をした人が検査のため入院されたのだ。
 右側の窓際の人、75,6歳の人だがよくしゃべる、それも同じことを何度も大きな声でしゃべるので、少々うるさく感じることがある。独り言も声が大きい。
 もう一人は腎臓病の人で、合併症なのかどうかわからないが血流が悪く、そのため右手小指を切って落とされたようだ。その傷口がなかなか癒えず痛い痛いと言っておられる。この人も車椅子だ。
 夕食前に整形外科か脳神経科の医師が来て診て帰った。「リハビリを希望されているようですね。」の言葉で始まり、どこを梗塞しているのかと聞いて、目の動きをみたり、神経反射を見たりして帰られた。何のために来られたのかな、明日からリハビリ開始してもらえるのかな。
 夜は久し振りにTVも見ないで寝たら、なんと9時消灯間なしに寝てしまい、目が覚めたら11時。トイレをしてまた寝てしまう。0時の薬に起きたがまたすぐ寝た。こんなこと珍しい。昼寝も結構していたのに。


8月21日(火)  16日目

 ペースメーカーのチェックがあり、異常なしとのこと。一段と退院が近づいた。
 昨日シャワーがなかったので今日はあると思っていたのになかった。リハビリもなかったし、退屈な一日だった。
 夜Telして金曜日に退院の準備のため妻に来るように言っておく。


8月22日(水)  17日目

 リハビリ開始。久し振りなので平行棒を10往復ほどしただけだが、くたびれて部屋に帰ったら昼食まで一眠り。
 医者が来て退院してもいい、「いつがいいか。土・日はどうか?」「土日は祭りで我が家が会場にもなっているので月曜日以降がいいのだけど、電話してみます。」というわけで家に電話したら、月曜日がよかろうと言うことになり、月曜日の午後と言うことにしたのだが、もう一度電話すると「裕司が金曜日の方がいい。」と言うことで金曜日の午後に決定する。後二日だ。
 念願のシャワーをしてもらう。体を流すだけでもっすっきりするものだ。
 午後は何もすることがないのでとても時間が長く感じる。パソコンで日記を打ち、本を読むだけ。食後から3時頃まではベッドに横になったりして過ごすのがオチ。それだけ午後のシャワーが待ち遠しいのだ。


8月23日(木)  18日目

 いよいよ入院生活最後の日となる。夜中から同室の人が看護婦さんを呼んだりしてよく寝れなかった。
 寝具のシーツ交換があったが、明日退院するので私は交換なし。
 リハビリがすんで連れに来た看護婦さんに頼んで売店によってもらい、テレカとボトルコーヒーを買う。久し振りにコーヒーを飲む。
 担当医と話をしたが、すべて今まで通り、共済と中央内科の世話になるようにとのこと。
 午後パソコンの前に座っていると、後ろから両肩をつままれびっくりして振り向くとなんと豊田先生と三河内先生、それに後ろに担当医がちいさくなって来ておられた。三河内先生が、「豊田先生がわざわざ来てくださったよ。」と言われ、私が「ありがとうございます。明日退院になりました。」「そうらしいですね、聞きました。何ならこれから一緒に帰りましょうか。」「嫌々それは。」担当医が何ともいえない顔をして縮こまって立っておられた。どうもほかにも豊田先生がここの送った患者がいたみたいだ。


8月24日(金)  19日目

 退院当日。リハビリをしていてもいつ迎えに来るのだろうかと気になって仕方なかった。早く来ると行っていたのに、妻がリハビリ室へ顔を覗かせたのが11時前だった。家を出るのが遅くなり、しかも妻が運転出来たためだ。ちょうどリハビリが終わるところだったので、一緒に病室まで帰る。
 部屋の帰ったら早速帰り支度。まず支払いに。それから荷物の整理。そうしてるうちに昼食。妻は食堂へ。息子は今朝友達の所から帰ってきたとのことで、車で寝ている。
 看護婦さんが午後の見回りに来た時、お世話になりましたと言う時、泣いてしまった。妻に冷やかされてますます泣いて、看護婦さんにも「あらあら泣いてしまったのね。」と言われてしまう。
 担当医がわざわざ丁寧に挨拶に来た。同室の人もビックリしていた。昨日のことがよほどビックリしたのかな。
 3週間ほどの入院生活だったが、一日一日は長かったが、振り返るとすぐ経ったようでもある。今度はいつ来るようになるのだろうか、10年後ならよいのだけれど。 帰りは息子の運転で帰る。帰ると母が迎えてくれた。はやり家がいいね。私が家に帰って一番にしたことは、ゆっくりと自分でトイレに行ったことだ。それから自分のベッドでお昼寝です。

 以上で、国立岡山病院でのペースメーカー電池入れ替えによる入院記録の終わりです。 

  8月2日



入院します


 8月6日よりペースメーカの入れ替えのため、国立岡山病院へ入院します。
 普通なら2週間もあれば退院出来るのですが、私の場合ワーファリンという抗擬血薬を飲んでいるため、それの効力がなくならないと手術出来ないのです。それに今回は今服用している心臓病のクスリを調製するかも知れないのです。これをやると効果が落ちつくまで退院出来ないと言うことになります(なにせ心臓のことですから)。
 ということでこのHPもしばらくお休みです。退院したら入院生活の報告を兼ねて再開しますので、あしからず。

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白のクジャクサボテン

7月16日


7月の「たんぽぽの会」


 今月(7月12日)は、先月の続きで作品作り「ちぎり絵」をしました。うちわにちぎり絵をするのです。妻も忙しかったのですが、気分転換にと半年ぶりに一緒にいてくれました。
 私は先月入院していてこの会へ参加出来ませんでしたが、入院していることを知って、一時帰宅している時に、保健婦さんが「入院中にでもしてはどうですか。」とわざわざ材料を届けてくださいました。
 というわけで、やり方が全然わからなかったのですが、作り方を知っている看護婦さんに聞きながら何とかデザインを決め、和紙をちぎるとこまろでやっていました。デザインはイラストを参考にしましたが。
 和紙ってちぎるのが結構難しくて力のいるものですね。左右に引っ張るようにしてちぎるのは、結構コツが必要でした。特に曲線をちぎるのがなかなか思うようにいきませんでした。
 ということで準備万端、当日は張るだけです。とは言っても張り方がわからなくて出来なかっただけですが。
 溶いた糊を筆に付けてちぎった和紙に塗り、張る部分にも塗りつけて張ったら和紙の上にまた糊を擦るように付けます。擦ると和紙の繊維がでてきて、ちぎり絵らしくなるのです。
 初めはそれを知らなくて張っていただけですが、擦るように張っていくと和紙の感じがでてくることがわかりました。
 他の人が縁も張っておられたので、私も余っている和紙を長くちぎって縁取りしました。
 みんなそれぞれすばらしい出来映え、自分のが一番さえないぐらいでしたが、まあ結構な物ができました。

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ちぎり絵  紫陽花に見えますか?


7月12日

 

池田小事件に思うこと


 池田小事件で思うことを最近メル友二人に送りました。
 その一部を載せます。
 
@
 小学校の管理職の一人だった私としては、今度の事件は本当にショックでした。今の学校管理のあり方、いやその前に学校のあり方の根底から覆すような事件でしたからね。
 学校と言うところは今までオープンで、どこからでも誰でも入れるところですから。おそらくこれは世界共通だと思います。その神話が崩れたのですから。

 極端なことを言うと、学校も刑務所のようにしないといけなくなります。マスコミはそうでもしろと言っているように聞こえました。日本は、何かおこると必ずと言っていいほど今までのことをすべて否定するようなことを言います。それで万事解決するものでしょうか。もっと冷静に見てほしいです。何か一つ悪いことがあると、それに関連することがすべて悪くなるような見方は止めてほしいです。
 閉鎖的な校舎で子どもを教育して、正常な子どもが育つと思いますか。
 〇〇さんも今赤ちゃんを育てていますが、子育てに窓のない部屋は適していると思いますか。鍵のかかっている部屋がいいと思いますか。
 もっと大きな目で見てもらいたいと思うし、本当の改善策は何かを追求してほしいと思います。

A
 池田小の事件は、あなたにとってはずいぶんとイヤな思いをされた事件だったでしょうね。
 精神病患者のふりをしていたなんて、何ともやりきれない思いです。
 これでまた見方が変わり、いい方向へ変わるのならいいけど、逆に治癒し、社会復帰をしている人・しようとしている人に不利になるようなことにならなければいいのですがね。っそれが心配です。

 教育界も大荒れです。日本だけでなく、世界の学校教育のあり方を問い直しかねない問題になりました。
 元々、学校というところはオープンなところ。どこからでも誰でも入れるところです。子どもを篭の鳥にして育てられると思いますか。
 政府ももっと基本的なところに目を向け、対症療法をしてほしくないものです。

 本当に子どもの将来を見据えた、学校教育現場の改革を行ってほしいです。

6月28日


入院顛末記


 5月18日、朝起きた時から体がだるくて熱っぽい、熱を計ると37度3分ある。前日のデイケアで入浴サービスを受けている時、寒気が走ったので『風邪引いたかな。』と思ったのが当たったようである。
 木曜日は病院が午前中の診察なので、妻に連れて行ってもらい診察を受けると、やはり風邪だろうとのこと。注射と薬をもらって帰り、おとなしく寝るが翌日になっても熱は引かないし、しんどさが増したようなので、またまた病院へ。今度はレントゲンを撮ってもらうと、見事肺に影ができているではありませんか。即入院。
 しかしまだ初期状態だったようで、熱も37度台が4日ほど続いただけでおさまり、十日後には肺の影も消え、順調に治っていきました。
 点滴も終了、明日にはお風呂に入れてあげると言われたその日の午後4時頃から寒気がし出し、熱が出てきた。夜中には38度台まで出て、解熱剤を注射しなければならない羽目に。
診察の結果、またしても急性前立腺炎のようである。また点滴の開始、これも早かったからか四日ほどで熱も引き、楽にはなりましたが、結局ひと月の入院となってしまいました。退院が6月14日。
 入院中困ったことは、点滴を打つ場所が手の甲しかなく、同じ所に集中して打つので、そこが堅くなり、痛くなりだし、看護婦さんによっては一度で針が血管に入らず、二三度打ち直しをされるともう悲劇。
 それと、運動不足からか便秘をして困りました。そうなくてもお腹に力が入りにくいのに、便秘になったら自分の力では押し出すことができなくて、浣腸。入院中3回もしました。一人で便所に行けないため一々看護婦さんを呼ばなくてはなりません。「遠慮したらダメですよ、呼んでちょうだい。」と言われましたが、やはり遠慮するのも良くなかったのだと思います。
 娘が6月13日男児出産で、妻が婚家先(京都府宮津市)に行かなくてはいけないので、私の面倒を見てくれる者がいなくなり、家にいるわけには行かず、退院五日目の19日には再入院、病院で一週間面倒を見てもらいました。
 せっかくの機会なので、糖尿検査をしてもらいましたが、あとは何もすることなく、妻のノートパソコンをもって入院し、電子文庫を読んだり、6月の『たんぽぽ会』でちぎり絵をしたといって材料を届けてくださったので、それをしたりして過ごしました。
 やっと26日退院、やっぱり家が良いよ。でも病院では規則正しい生活をしていたのに、家に帰ると早速夕食が9時、ベットに入ったのは12時過ぎ、現実は厳しいです。



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初孫 つぐみ(嗣実)です
 

5月11日


5月の「たんぽぽ会」


 5月の「たんぽぽ会」は、バス旅行です。遠くへは行けませんが、年1回のこの行事を参加者は皆待ち望んでいます。
 
 今年の行き先は瀬戸内海国立公園鞆の浦です。といってもよく分からない人がいるかも知れませんので、ちょっと説明を。(詳しくは http://www.hiroshima-cdas.or.jp/fukuyama/kanko/2-1.html を見てください。)
 昔秀吉が朝鮮通信使を迎え、絶賛された場所です。私も瀬戸内海国立公園では一番の景勝地だと自画自賛の向きはありますが自負しています。
わが町府中から子どもの頃海に泳ぎに行く一番近いところはこの鞆の浦にある仙水島でした。その昔は軽便鉄道で小さな蒸気機関車の走っていました。( http://www.tomotetsu.co.jp/history.htm を参照)それからバスに代わり、道もよくなり今では1時間ほどで行けるようになりました。
 
 本日は快晴。旅行日和です。集合場所へ私はギリギリに。みなさん早く行かれていたみたいです。健康チェックを受けて、車に乗り込む前にトイレへ。
 健康チェックを受けている時に、保健婦さんが、「木下さんの座席の隣は奥さんじゃあなくて他の人に座ってもらおうか。」なんて言うものだから、「ダメ、奥さんでなけりゃ。」なんて言い合う。
 ほとんどの人が自力ではバスに乗れないので、保健婦さんや理学療法士の先生・付き添いの家族に助けてもらってバスに乗り込みました。この所要時間が20分ほどかかりました。もちろん私も手伝ってもらってやっと乗り込みました。でも、去年より少し楽だったように思います。
 いざみんなが乗ってみると、妻が私の隣の座席に。その隣の補助椅子に私をいじめて保健婦さんが座ることに。ここでまたいじめられました。
 保健課長の挨拶が終わって、早速とんちクイズ、その後歌える人が喉の披露。そうしているともう目的地へ。
 目的地の《鞆シーサイドホテル》に着いて、レストランへ。このホテルは対潮楼のすぐそばで眺めのいいところです。予定より早く着いたので、まだ食事の準備が整っていなく、先に集合写真を撮り、後ちょっと眺めを楽しみました。

 昼食は、もちろん瀬戸内海産の鯛料理です。鯛の刺身・鯛の吸い物・鯛の鍋物・鯛飯と鯛づくしのメニュー。瀬戸内の鯛はおいしいですよ。
 私は出されたものをやっと食べるのが精一杯でしたが、中には鯛飯のお代わりをする人もいました。

 食後自由時間があったので、ホテルから出て、近所を散策。妻との記念写真も撮ってもらい、後はお土産を。ここは竹輪がおいしいので、竹輪と揚げ天・保銘酒を買いました。ホテルに戻ってコーヒーを一服飲んでいたら帰る時間となりました。
 
 僅か5時間ほどの本当に小旅行でしたが、私にとってみればとてもすばらしい旅行でした。
自分一人では、また妻と二人だけでも到底出来ないことをさせてもらったのですから。来年も行けることを楽しみにしています。
 
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国立公園鞆の浦・仙水島を望む
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みんなで記念撮影
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妻と記念撮影
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バスに乗るのも一苦労


5月4日


シャクナゲ園へ


 連休の始めから降っていた雨も止んだし、旅館も暇だし、長男もバイトが休みなので、久しぶりに家族でお出かけをしました。
 車で40分あまりの所にシャクナゲ園(広島県世羅郡甲山町宇津戸)があるというので、そこに行くことにしました。
 私は、『車椅子でも大丈夫かな?』と一末の不安はあったのですが・・・。
 家を出て20分ほどは順調に走っていた車も国道184号線に入ってちょっと行ったあたりから停滞が始まりだし、坂道でののろのろ運転。私たちは目的地へ行くため途中で右折したので、1時間ほどで停滞から抜け出すことが出来ました。停滞を抜けたら10分もかからないで目的地のシャクナゲ園に到着。
 駐車場へ車を止めて車椅子に乗り換えていると、係員の人が、「車椅子なら、ここからは行けないので、別の入り口へ案内します。」と、言うことで案内してもらう。
 ところが、山の登山道にシャクナゲが植えてあるため、舗装してない坂道ばかり。案内されたところは入り口ではなくて出口でした。出口にもシャクナゲがありましたが、そこにあるのはもう盛りの過ぎたもの。
 そうそう、車椅子と、年寄りを連れていたので入場料は一人分ですみました。
 それでも息子がバラスを敷いた坂道を苦労して20メートルほど押し上げてくれ、休憩所まで連れて行ってくれました。私と息子はそこで待って、その間に妻と母が見に行きましたが、坂が急なため母もすぐに戻ってきました。妻には写真を頼んでいたので、もう少し上まで行ったようでしたが、これもまもなく戻ってきました。
 その休憩所でアイスクリームを食べました。なんだかアイスクリームを食べに来た感じがしました。私たちはつまんないと思ったのですが、すべてを見た人たちで不満を言う人はいなかったので、すべて歩けば満足したのだと思います。今回は選ぶ場所が悪かったようです。
 それでは、去年行ったチューリップ畑へ行こうと言うことになったのですが、道を間違えたため、反対の方角に行き、結局帰路に就くことに。
 ところが、その道は農道か林道が昇格して県道になった道のようで、幅員が狭く、その上崖あり、ヘアピンカーブありで、スリルはありましたが、女性は「怖い、怖い。」の連発。私と息子は、ちょっとスリルを味わったような気分でした。
 この病気になって、右耳が難聴になったせいか、三半規管が鈍くなったのでしょう、ちょっと酔いかけました。
 今日のお出かけは何となく消化不良に終わり、みんなすっきりしませんでした。残念。


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これは私が撮ったシャクナゲ
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妻が撮ったシャクナゲ
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出口にあった水車小屋。米をついていました
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我が家のクジャク蘭に花芽がつきました




4月24日


4月の「たんぽぽの会


 本年度から「たんぽぽの会」は、また月一度になりました。
 今月は19日にありました。

 今年も四月は、理学療法士の先生が学生を連れてこられました。
 広大の学生で何と新潟から来ていました。ちょっとキュートな感じの子でした。来ている保健婦さんたちが、何と褪せて見えたことか。ごめんなさい、保健婦さん。でも若さには勝てませんよね。

 今日のメインは風船バレーです。今日も参加者が多くて1チームが14名になり、中衛と後衛が5名の変則編成になりました。チーム名は《チューリップ》とわがチーム《さつき》です。
 1セット10点。第1セットは10対6と余裕を持ってわが《さつき》の勝ち。
 第2セット目は、ところがわがチーム出足が悪くて逆に7対10で負けてしまいました。ちょっとチームプレーの乱れの結果かな。
 第3セットは、中盤までは2対7と大差で負けていたのですが、粘って追い上げ9対9にしました。本来ならジュースになるところですが、ジュースは無し。結局トスミスでわがチームの負けになりました。総合でもわがチームの負けです。一生懸命戦ったので、負けてもさわやかな感じです。

 お茶のおいしかったこと、ちょっと早かったのですが、柏餅もおいしかったです。

 来月はバス旅行で、鞆の浦に行きます。一年に一度のバス旅行、体調に留意して参加できるようにがんばります。

玄関に咲いたライラック

ラナンキュラス

4月11日


デイケア


今月からデイケアに行くことになりました。
 リハビリ病院から、週3回のリハビリを週2回にしようと言われ、その空いた一日に代わるものを考えていたところ、福祉協議会から今年2月オープンした介護保険デイケア施設を紹介してもらいました。

 まずどんなところで、どんなことをしてもらえるのかが不安だったので、一日体験通所を頼んだところ、オーケーだということで体験しました。
 11日(水)に9時20分頃迎えの車で施設まで。もちろん車椅子のままで乗ることの出来る送迎車です。途中二人乗っけていきました。
 施設の場所はしないの西はずれにあり、年に一度テレビに出てくる滝滑りで有名な滝の近くです。

 さすがに出来たばかりで真新しい施設です。到着後すぐにデイケア室へ。水曜日の利用者はとても少なく私を入れて4名です。
 早速お茶で一休み。その間に看護婦さんが血圧測定と検温。ケアマンとケアウーマンが揃ったところで自己紹介、私以外の利用者はもちろん70歳以上、女性2名・男性1名です。ケアマンは24歳、ケアウーマンは21歳、平均年齢が22歳とのこと。

 気分もほぐれたところで、まず男から入浴。ここのお風呂は鉱石を利用しての準天然温泉です。ケアマンに入れてもらい、ゆっくりと入浴しました。快適な入浴でした。女性が続いて入浴、その間はしばし休憩、お茶を一服。

 女性も風呂から出て一服していると、もう昼食の時間。今日の献立のメインは、柳川丼としめ鯖でした。私にとっては苦手なものばかりでしたが、柳川丼の穴子は我慢して身を食べましたが、しめ鯖はあたったことがあるので箸は付けませんでした。そのほかのものはすべて平らげたのはいいのですが、いつも昼食はパンと牛乳とヨーグルトだけなので、腹一杯になってしまいました。

 デザートの後、副理事長がカプチーノ・コーヒーを出してくださいました。落ちついたところでこの日は天気が良かったので外の庭の散歩。庭はまだ完成とまで入っていませんでしたが、散歩道があり、花も植えてあり、また山裾に立ててあるので、眼下に家並みが望めて結構綺麗でした。

 いよいよ午後はリハビリです。リハビリといっても集団リハビリを主にしておられるので、病院のようにはいきません。
 それでも私は運動療法士に肩をほぐしてもらいました。それからみんなとボールを使っての集団リハビリ。とは言っても介護士と運動療法士と我々で7名。名前を呼び合ってのボール渡しですが、ちゃんと喋れるというか理解できているのは私だけ。そこはリハビリだからお任せです。
 終わりにちょっと杖を使って歩くところを見てもらって、もう3時のおやつの時間。

 おやつを食べながら、元職業やら、病気をした時の様子など私に質問が集中。
 保育所幼稚園よろしく連絡帳を書いてもらって、今日の終わり。4時にまた送迎車に乗って我が家まで送ってもらいました。

 体験してみて、正直私にはまだ早いかなと思いましたが、一日をメリハリのある生活を送るためと、これからは私は自分より年上の人と接することがどんどん必要になってくるし、何よりも自分が介護保険適用者であることを自覚する・その中で生きていくことをしていかなくてはいけないのだと思い、続けてデイケアにいくことにしました。

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介護保健施設
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三郎の滑り滝


 

4月8日

お花見


  今日妻と花見に行って来ました。若い頃務めていたお山(諸毛町)の学校の上にある湖「羽高湖」まで桜を見に行きました。
 町中はもう散り始めているところもあるのに、そこはまだ五分ほどの咲き具合でした。対岸は2.3分咲きのようでした。やはり山です。下とは気温が三度ほど違いますから。
 車が湖の縁へは入れないので、車止めから車椅子を妻に押してもらって桜並木に所まで連れて行ってもらいました。
 そして野外ステージの観客イスに座って、お弁当を広げ、ビールを飲みながら、ゆっくりと一時を過ごしました。
 町中のサクラの名所とは違い、鶯や他の鳥の鳴き声を聞きながら、散策をする家族連れやカップル・飛び回ったり、ステージで歌う子供たちを眺めながらの、それはそれはのどかな一時でした。
 そこで、何と友達に会いました。向こうは孫を連れて夫婦で来ていました。久しぶりにいろいろと話をしました。
 私たちももう少しすると、孫を連れてで歩けるようになるんだな。歩くようになるのかな。
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手前は三分咲き・遠くのは八分咲き
建物が野外ステージ
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こちらの桜はまた四分咲き
 
 


3月24日

地震


 イヤァ、地震には驚きました。
 地震のあった時は、妻の実家に墓参りに行っている途中でした。
 走行中の車が急に揺れだし、ハンドルがガタガタとなり、一瞬タイヤホイールが緩んだのかと思ったほどです。信号で止まった時、前の車も揺れている。「こりゃぁ地震だ。」見れば看板灯もゆさゆさと揺れているではありませんか。パチンコ店からは人がたくさん出てきて、テンデに携帯電話をしだしました。
 私たち(妻と私)は途中で止まっても仕方ないので、実家まで走り、付いたらすぐ電話してみたんですが、「混み合ってます。」で繋がらない。何度かけてもダメなのでしばらくして掛けようと思っていたら、母から電話あり、「びっくりして次男とテーブルの下に逃れた。納まってから家を点検したが、大丈夫だった。」とのこと。安心しました。 
神戸地震や鳥取地震の時よりも激しい揺れでした。ちょっと心臓の脈拍が狂いましたよ。でも何事もなくて良かった。


3月23日


3月の「たんぽぽ会」



  3月22日

 今日は本年度最後の「たんぽぽの会」参加者26名。一番多かったかな。
 今日はゲーム大会。最初は去年の11月にやった新聞紙のうちわ落とし。新聞紙を縦に引き裂いて紐につるし、それをうちわで扇いで落とすゲームです。(写真を参照) 
 私のように手が不自由なものは楽にないゲームです。でも一生懸命。扇ぎすぎると紐に捲り付くようになってかえって落ちてくれないし。自分が落とそうと思っている新聞紙をとなりの人も落とそうとして、うまくいかなかったりして落とせなかったり、逆にとなりの人が助けてくれてようになって落とせたり。結局このこの勝負結果は引き分けでした。
 次のゲームはやはりうちわを使ったゲームで、紐に輪っかの付いた風船をぶら下げ、それをうちわで扇いで自分のコーナーまで持っていくゲームです。これも結構風力の調製が難しい。でもみんな一生懸命だから、行ったり来たり、なかなか勝負が付きません、紐の真ん中あたりで行ったり来たり、私のいる端の方まで来ないうちにタイムオーバー。また風船を扇ぐのであって叩いてはいけないのですが、ついつい力が入って叩いてしまい、いっぺんに5メートルほど移動したり、中には腰を浮かす人さえいました。
 写真のみなさんの顔を見てもわかるでしょう。みんな子供に返ったみたいにはしゃぐようにゲームに夢中です。腕が痛くなるのも忘れて。このゲームも引き分けになってしまいました。
 また新年度から月一回になりました、残念。
 
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この必死な顔
Dscf0198-3.jpgみんなががんばれと応援してくれてます



               3月8日

 今日は真冬に舞い戻ったかのような天気、雪が舞っています。みんな寒そうな顔をして集まっています。
 今日の内容はまた風船バレーです。
 チームの名前は私たちは【うめ】相手は【さくら】どっちが勝ったと思います?
 最初2点までは【さくら】がリードしたのですが、あとは一方的に【うめ】のもの。どうにも止まらない。10ポイント勝負だったのですが、何と10対6で我がチームの勝ち。
 【さくら】チームが残念がっているところへ私の一言。「さくらはまだ早い。そとは雪だよ。」これにはみなさん爆笑。ジャストタイムの洒落になりました。
 2会戦も10対4で【うめ】の勝ち。【さくら】はがんばるのだが、どうやっても得点できない。結局今日はすべて【うめ】チームの勝ちとなりました。やはり名前も時を選ばないといけないようですね。【さくら】に名を付けたことを後悔してましたよ。
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どうです、このうれしそうな顔
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まるで子供に返っているよう


3月6日


悲しいこと


月曜日、先輩の葬儀に参列してきました。その人は私が初めて勤めた学校の先輩で、一緒に6年生を担任し、いろいろと指導をしてもらった先生です。ものすごくバイタリティのある方で専門は国語ですが、音楽・特に鼓笛隊の指導はすばらしいものがありました。一人一人の子どもをしっかりと把握され、その子一人一人を本当に大事にされていた方です。「子どもを知らなくて何ができる。教科を教える前に子どもを知れ。子どもを知りたければ子どもと遊べ、その子の親と語れ。」が口癖でした。
 それが退職されて僅か4年目でお亡くなりになったのです。
 私が教頭試験を受けなければならなくなった時には、その先生に試験の傾向と対策を指導してもらったり、校長会であった時にもいろいろと校長としての資質にあり方などを教えてくださったのに。
 私が倒れてから2年後の夏に3クラス合同の同窓会を子どもが開いてくれた時には、とてもお元気で、私の姿を見てびっくりされていたのに。「これからの人生、夫婦二人三脚というわけにはいかないかも知れないが、奥さんに寄り添ってせいぜい楽しみなさい。」と、おっしゃってくださってたのが、自分はそれこそ奥さんに十分な償いをしないまま逝ってしまわれるなんて。
 元気な時には年一回「大津野会」といって1968〜70年にかけて同じ大津野小学校に勤めていた者の仲間一部が集まる会をしていて、そこで昔の思い出など楽しく語らっていたのですが。
 去年の7月と私と同じく脳梗塞で倒れられたとのこと。今年の年賀状が来ていなかったので、おかしいとは思っていたのですが、まさかこんなことになるなんて思いもよりませんでした。
 人の一生なんて本当にわからないものですね。同じ病気になっても生きながらえる者もいれば、残念な結果となる人もいます。
 残念なことですが、これも仕方ありません。やはり運命なのですかね。私は与えられた命、精一杯大切に生きて生きていきましょう。



3月4日


友に書いた手紙


 今日は春の前触れか、時折強い風が吹いています。
昨日は結構なお野菜ありがとうございました。私たちにとって手作りのものをいただくのが何よりです。
 去年から気遣っていただきながら、お礼のお手紙も差し上げず、大変失礼いたしました。
 お母さんの具合はいかがですか、またいらしているところを見ると良くないのでしょうか。
 Kさんとは、私がリハビリを受けている病院でよく会って、話をしている中で、あなたのことも出てまいりました。
 1996年8月18日妻と娘の嫁ぎ先に行っての帰り、高速道路のサービスエリアにはいり車を止めた時、突然脳梗塞に襲われました。これが走行中だったら大変なことになっていたでしょう。運の良いことに脳神経専門の診療科のある市立総合病院が近くにあったことと、その日の当番医がその専門医だったことです。
 人工呼吸器も付け、生死の境をさまよいましたが、おかげで一命を取り留めることができました。意識ははっきりしているものの、手足は全く動かず、口も利けず、ベッドに寝てるだけの状態が四週間あまり続きました。
 『何でこの俺ばっかりがこんな目に遭わなければならないのか。俺が何をしたというのだ。真面目一筋に生きてきたのに。』と、神仏を恨んだものです。
 実は私はこれまでにも大病を何度もしていたのです。心臓病で死にかけましたし、髄膜炎でも命拾いしました。しかし、その都度おかげであの世にまで行かなくて済んでいます。
 本当に何もできなくて天井ばかり見ている時にはいろんなことを思い出したり、考えたりしました。医者は妻に一生寝たきりになるだろうと言われたそうです。
 時が経つとほんの僅かですが手足の指が動くようになり、自分なりに動けるようになりたいという気持ちが湧いてきました。
 6週間ほどして福山の太田病院に転医し、本格的に生きるための訓練を始めました。ここでも医者から車椅子に座れるようになれば良しとしなければいけない、食事も流動食のままでしょうと言われました。
 私は私なりに考えました。このようになったことを嘆き恨んでいても日は過ぎる、何とか元の体に戻ろうとがんばっても日は過ぎる。一日一日をどうせ過ごすなら前向きに生きてやろうと。
 痛くてしんどいリハビリも歯を食いしばってがんばりました。日曜日も一人でリハビリ室に言って訓練しました。おかげで太田病院を退院する頃には、車椅子から立ち上がり、平行棒の中を伝い歩きできるまで回復、食事も普通食が食べられるようになり、指も何とか両手とも1動くようになりました。
 太田病院退院後、肺に食べ物がはいって肺炎となり、ひと月入院。その後県立リハビリセンターに入院して本格的なリハビリ訓練を受けました。
 今では、口は思うようには喋れませんが、何とかわかってもらえるようにはなりました。運動のほうは、杖を付いて数十メートル歩けるようになりました。ただ、私の場合、両手両足が麻痺しているため、平衡感覚が取れにくいので、いつ倒れるかわからないので、そばに誰かがいないと歩くことはできません。
 おかげで、現役の時からパソコンをいじっていたので、暇をもてあそぶと言うことはありません。キーボードも何とか打てますし、良いオモチャになっています。
 あなたから〇〇新聞やらI氏の書籍などいただいて申し訳なく思っています。私は一応真宗門徒です。世の中には私のようになったら神だより・仏すがりの人が多いやに聞きますが、私は神仏に寄りかからず、自分を信じて生きています。前向きに生きていかなければ、それこそ神仏がせっかく長らえてくださった命を無駄にすると思っています。
 と言うわけで、今までの心遣いには感謝いたしますが、どうぞ、もう気を遣わないでください。何か申し訳なくって仕方ありません。 こうなった体をいつまでも悔やんでも仕方ありません。あとどれだけ長らえることができるかわかりませんが、常に前向きで生きていこうと思っています。当面は娘にできる孫をだっこすることに意欲を燃やしています。人間後ろを振り向いてばかりいてはダメですね。どんな環境に置かれようとそれを乗り越えようとする前向きな姿勢が必要だと思います。
 だらだらと言い訳じみたことを書いてしまいましたがお許し下さい。 どうぞ、お母さんを大切になさって下さい。そしてあなたもお体を大切にしてください。
              2001年3月4日
 A・Tさま
                      木下 正明 



2月25日


2月の「たんぽぽの会」

    2月8日


 今日のメインイベントは久しぶりに「風船バレー」。ビーチボールの代わりに風船を使います。
 1チーム横4人、縦3人の12人が正式ですが、今日は25人も参加したので、付添が一人加わって1チーム13人でしました。
 私はバックの中央の右側です。本当はよく玉の来る前衛か中衛のセンターにいたいところですが、なかなか腕が上まで上がらないので風船がよく来るポジションは避けています。
 どういうわけか今日は風船がよく割れ、試合開始前に早くも割れてしまいました。みんな久しぶりなのでハッスルしていたのかな。
 風船ですから、強く叩くとカーブを切ってしまうし、チョイとでは相手側まで届かないし、結構興奮します。
 第1試合は我がチームが圧倒的に勝ち。前衛に腕の利く人が揃っているからだと思います。
 私はサーブのときでも風船を思い切り叩くのですが、ネットを越すことができれば上出来、大抵は味方の前衛まで、もちろん後ろを振り向いて風船が来ているのを確認できる人なんていませんから、声を掛け合ったり、目の前に風船が現れて慌ててトスするのが普通です。
 第2試合は接戦となりましたが、相手チームががんばり相手チームが勝ち、1勝1敗になりました。
 ここで我がチームは気合いを入れてチームの団結を図りました。第3試合はお互いトスが続いて伯仲したゲームになりましたが、結局は我がチームの勝ちになりました。
 今日は前衛の人ががんばったので、後衛まで風船がなかなか来なかったのですが、それでも1試合3回ほど私の所に風船が来て、右腕を上げて(上げたつもりでも頭の上までは上がっていなかったかも知れません)前衛まで風船を帰しました。
やっぱり普段は家にいて、動いて汗ばむことがないからこういうスポーツをすると本当に心身共にすっきりします。あとのお茶のおいしかったこと。


    2月22日

 久々に妻の付き添いです。
 今日は初めての試みで「ステンドグラス作り」です。
 それぞれ家から空き瓶を持ってきています。私はコーヒーの空き瓶。
 ステンドグラスといっても色ガラスを切って作るのではありません。ステンドグラス風に色を付けるのです。
 最初に黒の縁取り塗料で縁取りをして、そのあといろんな色の塗料を塗ります。
 私には絵の才覚がないので、いいデザインも思い浮かびませんが、瓶が4角なので春夏秋冬を描くことにしました。
  春はチューリップ、夏はヨット、秋はコスモス、冬は雪だるま。でも白色がない。まあ変わった色の雪だるまでもいいか。
 速乾性の塗料を使うのですが、以外と乾きが遅く、特に色塗塗料のほうはちょっと多く付けると、垂れるので思うようにいきません。いざ初めて見ると、さっきも述べたように良いようには塗れてくれない。面が少し曲面になっているので、色は流れるし、縁取りの塗料を塗るのに、チューブから絞り出すようにしないといけないのが、これが結構力がいり、私としては難しい。力を入れすぎると太い線になるし、力を入れないと線が描けないし、苦労しました。直線さえうまく描けないのに、曲線となると本当にうまく描けない。花が虫に食われたようになってしまいました。
 下絵は4面とも何とか描けたのですが、色塗りは時間の都合で春夏の2面しかできませんでした。
 それともう一つ瓶を持っていっていたので、そちらに2月22日はニャンニャンニャンの日ということで猫を描きました。これも何とか色づけまでできました。白色がなかったので、「何色にしようか?」と同じテーブルの人に聞いたら、{ピンク、ピンク。」と言われたので、ピンクにしました。
 時間の都合で全て完成とまで行かなかったので、何となく未消化の感じで今日は終わりました。次回は違うことをするので尚更です。次回もしたいと思った人が多かったようです。
 妻が「家でも買って、おばあちゃんともやろう。」と言ってくれたので、気分が納まりました。本当に買ってくれるのかな。


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みんな真剣な表情で
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出来映えが少しはわかるかな

1月31日

1月の「たんぽぽの会」


    1月12日
 
 今日は新年会。とは言っても特別なことはありませんが、お正月の過ごし方の交換、三が日にお餅をいくつ食ったかなどの報告、ちなみに、みなさん喉につかえることを恐れてか一日一個がほとんどでした。私もご多分に漏れず、一日一個でした。
 新年会と名を付けてのですから、メインイベントは「双六」大会です。
 まず4チームに分け、私は第二チームに。
 双六ですから駒の途中にいろいろと課題が盛り込まれています。駒の上がり下がりはもちろん歌を歌えとか、チームで何か芸をしろとか、今年の抱負を述べよとかあり、一番の関門には夫婦の馴れ初めを言えというのがあります。
 それぞれ1チームか一人ずつ出ての団体試合形式で行います。先に上がったら50点、2位が30点、という具合に4位は10点です。大きなサイコロを投げて進みます。歩ける人は自分で歩いて進み、保健婦さんが運んでくれたイスに座ります。私のように車椅子の者は車椅子で進みます。
 行きつ戻りつする人、休みばかりを当てて前に進めない人、課題ばかりを当てる人、結構見ていてもおもしろいです。
 私は課題が当たったのは一回だけ、今年の抱負を発表しろでしたので、入院が少なくて済みますようにと抱負を述べました。
 やはり一番関心があったのは、夫婦の馴れ初めの発表でした。これが当たった人は顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに発表していました。見合いの時、可愛い人だなと思ったとか、頼れそうな気がしたとか、いい年のものが言うのですから、聞くほうはなおさらおもしろかったです。
 結局私たちのチームは3位でした。みんな童心に返って楽しいひとときでした。


    1月26日

 この日は予定を変更して、「ベンチサッカー」になりました。
 いつもの体操の他に今日は普段なかなかリハビリしない手や指の体操もしました。たとえば手を組んで両手を頭の上から足のほうへ降ろす運動でも、ちょっと手の平に回転をつけるだけで普段使わない筋肉を動かすことができるなど。
 ベンチサッカーは文字通り椅子や車椅子に座ってのサッカーです。チームで向かい合って座って位置し、ビーチボールを蹴りながらゴールキーパーにボールを送っていくゲームです。
 チーム分けをしたあと、チーム名をつけます。私のチームは私が「イルカ」がいいと言ったのが採用されました。
 まず一回戦は、足を使ってのオリジナルベンチサッカーです。片足しか動かない人も動く足を一生懸命振り回しながらボールを蹴ります。私もよく動く右足を懸命に動かしてボールに食らいつきました。
 一回戦我がチームの大勝。二回戦は、ゴールキーパーの位置を交代、これで一回戦目には思うように動かなかった足を使っていた人も、今度はよく動く足が使えます。私にとっては利き足が逆になりましたが、それでも結構がんばりました。
 二回戦も我がチームが勝ちました。三回戦は足でなく手を使ってのサッカーです。ボールを摘んではいけません。叩くか両手で持って放るかです。
 片手でも結構うまく使える人が多く、(まあ私のように両手が十分使えない人は2人しかいませんが)こちらもエキサイトし、ボールが場外に叩き出されることがしばしばです。そして顔にボールが飛んできたり、ヘディングをしたり、大いに興奮しました。
 なぜかこの試合も我がチームの勝ち。四回戦は、手も足も使っていいというもの、すざましい試合となりました。火事場の馬鹿力ではないですが、普段は動きそうにない手や足がこの時には動くのです。私も上がらない腕を思い切り上げていました。
 一試合の時間は3分ほどの短いものですが、みんな顔を赤くし、息を結構弾ませて、汗をかくほどの奮闘ぶり。
 結局私が名付けたチーム名がよかったのか、今日は全試合勝ってしまいました。試合のあとのお茶がおいしかったこと。


1月24日



PCを替えた


 年が明けてから、どうもPCの具合が良くない、すぐにプログラムがビジーになったり、ハングアップしたり、CDがものすごい音でぶれたりで困っていました。
 長男に相談したら、「もう寿命が近づいているのだ。新しいのにしたら。」と言う。

 旅館の方でケーブルテレビのインターネット接続を入れ、LANを導入することになったのを機会に息子が「僕が今持っているパーツに3万円ほど出せばPCを組み立ててあげる。」と言うので組み立ててもらうことにしました。
 今までのデータがパアにならないように一つのフォルダに集めたり、メールアドレスを保存したり。

 やっと終わったかと思うと、「お父さんのPCの部品も使うから。」といって持っていってしまいました。組み立てとシステムのインストールは一日でできたのですが、ここで問題が発生。
 私のハードディスクはPC−9821仕様でフォーマットしてあるため、どうもDOS/Vでは読みとってくれないようである。せっかくのデータが使えないのでは何にもならない。特にグラフィックのファイルはフロッピーでは保存できないので、ハードディスクに残したまま。
 どうしようかと思案していると、LAN接続の配線が終わり、旅館のPCとつなぐことができるようになったので(設定するのに息子も本をみながら2日以上かけて設定しました。)、もう一度私のPCを元に戻して、データをLANで旅館のPCに送っておいて、もう一度DOS/VPCを組み立て、旅館の送っていたデータを新しいPCに送り直して、やっと完成。

 ここからは私がしなければいけないことは、ソフトのインストールです。日本語辞書などは、ユーザー辞書をコピーし直したり、保存用フォルダを開けるようにしたり、これにずいぶんの時間を要しました。何せいっぱいことソフトをインストールしているものですから。

 今まではインターネットは電話回線でつないでいたものが、今度はケーブルになったので繋ぎホーダイです。今まで使っていた接続用ソフトもいらなくなりました。その設定にするのも息子に教わりながらやりました。
 Webを開くにもダウンロードするにも時間を気にすること入らないし、快適です。

 PCは、今まで私が持っていたのよりだいたい倍の性能になりました。ふつうだと20万円くらいかかるのでしょうが、息子の持っていた古い部品とか私の持っていたPCで使える部品とかを利用したので本当にやすく仕上がりました。
 一つ問題点があります。それはフロッピーディスクが1.44MBしか使えないことです。1.25に入れていたデータやソフトはいちいち息子に変換してもらわないといけないことです。それとキーボードが変わったため、キーの操作や位置が変わったので、それに慣れるまで時間がかかりそうです。

 


2001年1月15日



今年初めて太田病院へ


 今日は今年初めて脳専門病院へ検診に行って来ました。
 朝起きたときは一面真っ白だったので妻が「怖い、私いけるかしら?」と言ってましたが、「大丈夫、これくらいだと出掛ける頃は溶けているから。」案の定出掛ける時刻の9時過ぎにはお日様が当たって道路はきれいに雪が溶けていました。
 10時過ぎ病院について受付を済ませ、待合いロビーへ行くと、今日は患者が少し少ない。やはり寒いから用心をして家からでない人が多かったのかな。
 前回の時先生から、「今度はCTを撮りますから。」と言われていたので、遅くなるだろうと覚悟していましたが、やはりそうなりました。
 この病院では三カ月以上来診がないと、再診でも必ず予診を受けなければならないのです。予診で最近状況を話し、それからCT撮影、そして先生の診察となります。先生からはCT撮影の結果を聞き、冬の過ごし方の指導を受けて終わり、終わったのが午後2時過ぎ。
院内の食堂で食事を済ませたらもう3時過ぎていました。今日はリハビリの先生には挨拶だけで帰りました。旅館が忙しいので、妻も早く家に帰りたかったからです。
 途中買い物をして家に帰ったら5時前でした。
妻は休む間もなく仕事に、私は一時間ほど昼寝をしました。いつものことながら疲れた。

         

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